エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(岩波文庫)読んでる途中

まだ今読みかけの本なのですが、めちゃくちゃ面白いです、このエイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(土屋哲訳/岩波文庫)。
タイトルから来るフィーリングで手に取った本です。
僕にとっての初めてのアフリカ文学なのですが、ちょっとハマりそうです。

ロッキータウンという町に住む主人公の冒険譚なのですが、まずこの町の設定が驚きです。
ひょっとしたら僕がアフリカの国々の風習に詳しくなくて、そこから来るエキゾチシズムなのかもしれませんが、……ここは一体どういう町なのだろうと引き込まれていきます。
僕が一気に引きずり込まれたのは、次の引用部分の最後の一文。

さてこのロッキータウンに住む人間は、大人も子どもも、それぞれが自分の崇拝する神さまとか、偶像、神像をもっていた。したがって数えきれないほどたくさんのお社が、川の土手に建てられ、ときにこの土手は、〈神さまと偶像、神像の寺院〉と呼ばれることもあった。かりにもこの町の住民で、尊崇する神さまや偶像、神像をもっていない者がいれば、その者は子どもや大人たちから忌避されたばかりか、不信心者とみられ、だれからも相手にされなかった。(岩波文庫、8頁)

何かを尊崇するのが当たり前、そうでない者は相手にされない……というのは、何でもかんでも冷笑したりして醒めてしまっている僕の周辺の環境とは真逆で、それでいて呪術的なものがそれなりに信憑性の高い僕の周辺の環境と似ている(特にその呪術的なものへの信憑が個々人によってそれぞれあるという点も興味深い)。

この小説の主人公「わたし」は、前世において〈生まれながらにして死んでいる赤ん坊〉族の一員であったらしいのですが、それが理由に自分の妻に子どもが授からないと考えており、この状況を打破するために〈さい果ての町〉に住む全知全能の〈女薬草まじない師〉に会いに冒険の旅に出る、というのが物語の軸になっています。
「クエストもの」というジャンルがあるのかどうか知りませんが、RPGみたいですよね。
だけど、冒険の動機が「子宝に恵まれないから」というのが、少しシビアですね。
小説にはこんな記述があります。

(略)というのも、事実、子どもをひとりも授からない女や男は、決して友だちや近所の人たちから尊敬や敬意を払われないからだ。しかもそんな男や女は、一生涯悲しい人生を送らなければならないことになるのだ。いかに貧しくとも、子宝に恵まれさえすれば、幸福に暮らせるのだ。
 このことは、わたしの町ではきわめて重大な慣習なのだ。「母は黄金。父は子どもの姿見だ」という諺はわたしたちみんなの生活訓になっていた。(22頁)

子どもがいなきゃダメだという考え方は、主人公個人のものではなく、町全体、共同体全体に共有されている考え方なのですね。
一応この小説は「幻想小説」らしいのですが、アフリカの地域ではそのような考え方が根強いということなのでしょうか。
私たちのいる現代の社会では、上述のような考え方が表立ってまかり通っているということはないのかもしれませんが、それでも若い夫婦とかだと「そろそろ子どもが欲しい頃だわよねぇ」とか周囲から言われたり、「あそこの夫婦は子どもがいないんだ(子どもを作らないんだ)」ということが殊更に意識されたりということはあるので、私たちにとっても決して無縁な考え方ではないですよね……。
そういう考え方が、ある人にとってはプレッシャーになるのにね……。

で、この主人公、命懸けで〈女薬草まじない師〉を探しに行きます。
周囲の人間(妻や父母、義理の父母ら)は泣いて彼を止めるのですが、彼の決意は固いのです。

その冒険のさなか、彼はある強敵に出会います。その強敵の名前(?)を見て、僕は度肝を抜かれました!

ジャングルのアブノーマルな蹲踞の姿勢の男(42頁ほか)

何ですか!「アブノーマルな蹲踞」って。こんな言葉今まで聞いたことがない。イメージできない!
訳者の訳し方がいいのですかね。いや、オリジナルがいいのかな。
この敵の名前だけでなく、この小説にはこちらの想像力を刺激する様々なフレーズに満ちています。

ということで、まだ読みかけの本ではあるのですが、どんどん読み進めていきたい。



ところでちなみに、三浦綾子『氷点』上下巻に引き続き、『続氷点』上下巻も読みました。
(『氷点』については、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20160228/1456663275
個人的に辻口徹に思い入れをしながら読んでいたので、あんな結末になって悲しかったです。
そういう悲しい気持ちだったからこそ、今読んでいる『薬草まじない』の痛快さにハマっているのかもしれません。

薬草まじない (岩波文庫)

薬草まじない (岩波文庫)

三浦綾子『氷点』上下巻(角川文庫)を読んで

最近読んだ本について。三浦綾子『氷点』上下巻(角川文庫)についての感想です。

新年度の3年ゼミに入ってくる学生の1人が、三浦綾子の『氷点』にすごく心を揺さぶられたと言っていたので、改めて読み直してみようと思い、手に取りました。

しかし、実際に読んでみて、もういきなり序盤で気付いてしまったのですが、この『氷点』は初めて読む作品でした。今まで読んだことがあるつもりでしたが、僕の誤った記憶でした。
僕が実際に読んでいたと思われるのは、同じ三浦綾子の『塩狩峠』だったみたいです。ああ、恥ずかしい。

とてもヘビーな作品なので、それなりに僕も読後の感想を抱いたわけですが、感想や疑問点をここに多く書いてしまうと、この文章をその学生が目にしてしまった場合、学生にあまり芳しくない影響を与えてしまうかもしれません。
なので、できる限り控えめに感想を記しておこうと思います。


……読んで思ったのは、主要な作中人物たちがあまりにも自己中心的だということ。
三人称の語り手であるため、登場人物の内面を自在に語ってしまう語り手なのですが、この語り手は彼らがいかに自己中心的かを躊躇なく語っていく。
それで、その個々の濃い自己中心性がすれ違いすれ違いして、悲劇が生まれていきます。

語り手による方向付けもあるかとは思いますが、夏枝という女性の自己中心性が、かなり酷いものとして描かれていると思いました。
「昔美人だった人」が、それなりの年齢になってからも「ちやほやされたい」と考えていて、そのあたりが諸悪の根源のようなものとして描かれている。
作者は女性ではあるものの、語り手としては女性嫌悪の語りを展開しているのかな、と感じました。

「原罪」というのが、この作品のテーマの一つのようですが、僕が強く感じたのは、そのような普遍的なテーマと同じくらい重いものとしてある、「終戦後」という時代性です。

あとそれと、僕が読んでて驚いたのが、夏枝が「避妊手術」を受けているということ。
不妊治療とかじゃなくて、避妊手術。
避妊具を使ったりするのでもなく、性欲を我慢するのでもなく、避妊手術……。
まず「そんな手術があるんだ!」という、僕の浅学(?)ゆえの驚きもあるのですが、「手術をしてまで性行為を大切にするのか!」という夫婦の思想に、少なからず驚きました。

……一応、瑣末なところでの感想を書いたつもりです。
学生の研究意欲を削ぐようなことを書いたつもりはないですが、いかがでしょうか。

とりあえず文庫の上下巻を読み終えましたが、まだ『続氷点』(上下巻)があります。
引き続き読んでいこうと思います。

氷点(上) (角川文庫)

氷点(上) (角川文庫)

【告知】昭和文学会・学会発表「特集 声と再現性」

告知が遅くなってしまいましたが、告知です。

僕が所属している昭和文学会の研究集会で、発表することになりました。

和文学会  2015(平成27)年度 第56回研究集会【特集 声と再現性】
■日時:5月9日(土) 午後2時より
■会場:膻浜国立大学 教育人間科学部講義棟 7号館 101教室
■発表者:広瀬正浩、真鍋昌賢、鷲谷花(敬称略、発表順)

詳しくは学会のHP(http://swbg.org/wp/?p=816)をご確認いただけると良いのですが、僕の発表要旨については、以下に記します。

◎声優が朗読する「女生徒」を聴く ――声と実在性の捉え方――
広瀬 正浩(椙山女学園大学
近年、人気声優が朗読する近代日本文学の名作のCDやCD付き書籍が多数発売されている。声優の存在に注目が集まる今日のアニメ文化の広がりを、そこに見ることができる。この中に、花澤香菜が朗読した「女生徒」(2012年)がある。周知のように、「女生徒」(太宰治、1939年)はこれまで様々な視点から〝実在性〟が問題とされてきた。語り手である少女の非実在性・虚構性が話題になった。また、この小説が、実在した女性の日記からの大幅な引用によって構成されたという事実を受け、男性作家・太宰治の表現の政治が問われるようにもなった。ただ、声優という独特な発話主体のその声を、音響装置等を通じて聴き取ることができる立場にある今日の私たちは、「女生徒」をめぐる実在性の問題に、従来とは別の仕方で接近することができる。本発表では、音響装置と私たちの想像力との協働によって立ち上がる身体に着目し、女生徒の実在性について再考する。

とりあえず、発表の内容については、発表要旨以上のことは、今はまだ書かないつもりでいます。
発表の中で、花澤香菜さんを取り上げます。
花澤さんの声の演技も歌も本当に大好きなのですが、発表そのものは、あまり主観的にならないと思います。
僕以外の発表者は、文化史的な観点から「声」に迫ろうとしていますが、僕の発表はあまり文化史的ではないかもしれないですね。

実は昭和文学会では、2009年にも学会発表を行いました(http://swbg.org/wp/?p=172)。そのときの特集は「文学と音楽の昭和」でした。
……もう6年前ですか。

また、発表が終わったら、この場でも報告したいと思っています。

「人外に恋しても」

昨日、非常勤先である愛知教育大学で、
「人外に恋しても」
というタイトルのプレゼンをした。

「国文学演習」という授業で、学生たちに研究発表をさせていて、それに対するコメントを僕がする……という演習形式の授業をおこなっていた。
扱っていた素材は、森見登美彦有頂天家族』と『四畳半神話大系』。

しかし、学生の発表を聞いているうちに「自分ならこう論じたい」と思うようなことも生じてきたり、「私たちにやらせるのはいいけど、じゃあ、先生ならどう発表するっていうのさ?」という学生の“声なき声”が聞こえてくるような気もしたような気もして(本当には聞こえてこなかったけど)。
そういうわけで、自分が自分に宿題を出すような気持ちで、発表を担った、ということになる。

人間と人間以外との恋愛関係について考えるというこの内容は、今回の授業とは別に、自分の中で考察していたものである。
このブログでも言及したことがあるのだが、
http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20150130/1422557748
僕の本務校である椙山女学園大学で、アニメ・マンガ研究支援プロジェクトをやっていて、そこで研究同人誌『るいともっ!』というのを作っているのだが、そのVol.3に掲載するための文章として、同じ題名のエッセイを既に書いていたのだった。
その文章を、口頭発表用にまとめ直して、昨日学生の前でプレゼンをしたのである。

人間と人形との関係ということで、西尾維新憑物語』の一節も引用し、朗読したのだが、そのときに、アニメでの忍野忍の話し口調を真似てみたのじゃ、お前様。

……。

もし授業を受けた学生で(受けていない学生でも全然OK)、読んでみたいという風変わりな人がおりましたら、今年の4月以降の展開にご期待あれ。
アニメ・マンガ研究支援プロジェクト自体も、来年度は攻めでいきたいと思うておる。


ところで。
この「人外に恋しても」という発表なんてまさにそうなのだが、僕の研究の仕方には、ある方法的な特徴がある。
他の研究者もそうかもしれないけど、少なくとも「僕はこうしているよ」というのがある。
それは、

  自分に対してむちゃぶりをして、それをクリアする!

というものだ。
大変素朴ではあるが、僕にとっては大切な手続きだ。
自然に心惹かれるものを論じるのではなく、「むちゃぶり」によって自分の知見を広げていくという感じ。

例えば、「幻聴ではなく、本当に聞こえたんだ、という理屈を組み立てよ」とか「幻視ではなく、本当に見えているんだ、という理屈を組み立てよ」とか、そういう「むちゃぶり」を自分に対しておこなって、その理屈を組み立てるための材料を集めたりしていく。
もちろんその理屈は、「屁理屈」であったり「詭弁」であってはいけなくて、「幻聴でしょ?幻視でしょ?」という人たちを説得できるものでなければならない。
説得できる材料を用意し、だからこういうことが言えるんだ、というものを示すことで、“客観性”というものを構築していく。

もちろん、こうした研究方法は、ある意味で「結論ありき」なものなので、弊害はある。
弊害だらけかもしれない。
都合のいい材料ばかりを集めたくなる、そんな欲望との戦いが待っている。
むちゃぶりしなければ、そんな不毛な戦いをせずに済むのかもしれない。
しかし、逆に、都合の悪い材料をあえて俎上に載せ、それらを論破していくことで、持論が補強される。
そして、むちゃぶりを自らクリアすると、それなりの達成感も得られる。
もちろん、新たな課題も見つかる。
だけどそれは、次の研究のモチベーションにもなる。


僕は職業柄、学生を前にして、研究方法について語る機会が多くある。
……それが職業だし。
いろんな研究方法が実際あるし、その時々によって、語る内容も異なったりもする。
しかし、基本的に曲げることのない軸として、「研究は楽しい」というスタンスは伝えるぞ、という気持ちがある。
自分が「楽しい」と思えないことを、他の人に薦めることなんてできやしない。
「卒業のために仕方なく研究しようね」とか、「面白くないけど頑張ろうね」なんて、学生も聞きたくないだろう。
……すっごく“自己肯定感まる出し”な感じだが、自分が楽しそうに研究したり、研究することに面白がっているその姿勢が、学生へのメッセージになると思う。

そりゃあ、研究者って努力の割に稼ぎは少ないし、世間離れしていて社会的にも馬鹿にされているところもなくはないし、将来性がよく分からないけれど。
しかめっ面して研究してたって、周囲が暗くなるだけ。
勝手にやってろ!って感じ。

だから、自分としては、今までどおり、面白がってやっていきたい、と思っている。

最近思うこと(研究・お仕事編)

久々に、ブログを書いてみることにした。
Twitterではいろいろ呟いているが、なんか長文が書きたくなったのだ。
自分の心の中のことを痕跡として残しておくためにも、この場を借りることにする。


2014年度の授業も、まもなく終わりを迎えようとしている。

今週の初めに、本務校(椙山女学園大学)での「日本文学史(現代)」の授業が終わった。
この授業は、前年度までの文学史の授業内容をある程度は踏襲しつつも、授業名そのものの変更により、内容も、自分なりにチャレンジしなければならないことが多くあった。
にしても、「文学史(現代)」とは、罪なタイトルである。
文学史」というからには、ある程度の時間的なスパンが想定されているべきはずなのだろうけれども、「現代」という枠組みによって期間が短く区切られてしまっている。

……まるで、長距離走(短距離部門)と言われているようなものではないか!

とはいえ、このタイトルを承認したのは、他ならぬ僕自身だ。
というわけで、《現代の文学を時代性を意識しながら考察する》という狙いを立てて授業をすることにした。これなら、あまり無理はあるまい。
そして、5つのテーマを立ててみた。

 ・コミュニケーションを重んじる社会
 ・増殖するラブコメ
 ・デジタルメディアの政治性
 ・「心の闇」をめぐる物語
 ・ループと世界認識

このテーマに関連する小説やアニメなどを取り上げて、私たちの生きる時代における考え方・価値観を話題にしていった。
まぁ、自分でも頑張って教えたつもりだが、もちろん頑張ったのは学生たちも、である。
最後の授業に、任意で感想を書いてもらったが、彼女たち(本務校は女子大です)が物語とか表現文化というものを考えていく上で、僕の授業がある程度の影響を与えたみたいなことが、それらの感想からうかがえて、僕としては「授業やって良かったな」と思っている。
もちろん、義理でそういうことを書いてくれた心優しい学生諸氏もいることだとは思うが、……そこはまぁ、いいではないか。
ただ、思いのほか多かった感想に「先生のおかげでいろんなアニメを知ることができました」的なものがあるのだが、注意してほしい、これは「文学」の授業だったんだよ。
(だけど、別に注意しなくていい)


2013年に初の単著『戦後日本の聴覚文化 音楽・物語・身体』(青弓社)を出して、しばらく経つ。
自分としては、そろそろまた何かを書きたい・出したい、と思い始める頃なのだが、この本のおかげで、研究者としての今の自分が支えられているなあということを、折に触れて思う。
たとえば、学会の機関誌などで書評していただき、非常にありがたいお言葉(ならびに課題)をいただいたりする。
また、聴覚文化関係の研究発表などの依頼をしてくださる人が現れたりもする。
僕が書いたものが、僕をいろんなところに連れて行ってくれるのだ。
これは僕が昔から(中学生頃から)思い描いていたことではないか。
ということで、僕はこの今の状況を、幸せなことだと思っていいのだと思う。……思わなければならないのだと思う。
しかし、僕は欲深い。
さらにいろんなところに連れて行ってもらいたいのである。
……というわけで、またいっぱいいろんな文章を書いて、本を出せるようにしたい。

ところで最近、本務校の所属学部(国際コミュニケーション学部)で出しているアニメ・マンガの研究同人誌『るいともっ!』のVol.3の編集・作成に関わっている。
……関わっている、とは言っても実際に編集してくれているのは、有志の有能な学生ちゃんである。
試験期間という多忙な時期に、非常に頑張ってくれている。感謝である。
そして、表紙絵も“俺得”的な感じで、非常に素晴らしく仕上がりつつある。これまた感謝である。
この研究同人誌もまた、この僕を、そしてもちろん学生ちゃんたちを、いろんなところに連れて行ってくれるだろう。
……連れて行ってくれるよう、事前の条件整備は必要だけれども。
その条件整備もまた、楽しいのだけれども。


ところで。
またまた「ところで」なのだが。
大学院時代の悪友(今は素晴らしい研究者)とお喋りする機会が最近あって。
そのお喋りの流れの中で、僕がその悪友に「いやいや、頼まれた仕事は基本断らないでしょ(断れないでしょ)」と言ってみた。
そしたら、「いつまでそんなことを言っているの?」的なツッコミを受けた。
その悪友いわく、依頼された仕事をいちいち引き受けていては、本当に自分のやりたい仕事をやる余裕がなくなってしまうではないか、もう既に職を得ている身としては、別に依頼を断ったからと言って立場がなくなることはなかろうに、ということのようである。
……確かにそうかもしれない。
しかし僕は、大学の職に就けなかった時期が長かったのである。
依頼を断ったら「あいつ生意気に。何様だと思ってるの?」と思われるのではないか、と思ってしまうのである。
もう仕事が来なくなるのではないか、と思ってしまうのである。
貧乏性なのである。
大学院生のメンタリティが抜けないのである。
……いや、ひょっとしたらその悪友は、「お前、もう40歳なのだから。そろそろ若い人に仕事を譲れよ(笑)」ということを言おうとしたのかもしれない。
その悪友、優しいから。僕に直接的にはそのように言わず、遠回しに言うつもりで、前述のようなことを言ったのかもしれない。
そうかもしれない。
しかしだ。
誰かが僕にもたらしてくれる仕事が、僕をいろんなところに連れて行ってくれるのだ。
その楽しさは、手放したくはない。
だから、たとえ多忙であっても、たとえ他にやりたい仕事があっても、よほどのことがない限り、引き受けたいとは思っている。
仕事を選ぶのもいいけど、仕事に選ばれるのも良いではないか。
(↑そう言えるうちが華、である。)
(世の中には「ブラック×××」というものが多々ある、という。)

……しかし、本当は忙しいのである。
仕事と趣味と生活との区別がつかないような領域に入ってしまうと、結局はずっと仕事をしているような気がして嫌になるし、ずっと遊んでいるような気がして後ろめたくもなるし、もうどうしていいか分からなくなるのである。


少しずつ、2014年度が終わっていく。
良かったこともあれば、反省すべきこともある。
謙虚に1年間を振り返りつつ、次年度に備えていきたい。
しかしその前に、レポートの採点が待っている。

シンポジウム(2014年3月29日)聴講しての、雑感

先日、次のようなシンポジウムを聴講しました。

日本近代文学会東海支部・2013年度シンポジウム
テーマ:現代小説の進行形  文学研究にとっての創作・研究・教育
パネリスト:諏訪哲史大橋崇行松本和也(敬称略)
日時:2014年3月29日(土)14時〜
場所:愛知淑徳大学星が丘キャンパス

大学という教育機関で「文学」「小説」というものを扱うとなると、もっぱら〈読む対象・分析する対象〉として扱うということがイメージされがちなのですが、実際には、〈創作するもの〉として扱うということがなされています。
そうした現状を踏まえつつ、「創作」「研究」「教育」という三つの項がどのように関係しうるのかということを、パネリストそれぞれの立場から語る……そんなイベントでした。
ただ、3人のパネリストのうち松本さんは主にまとめ役という感じでしたから、実際のところは諏訪さん、大橋さんのお話ということであったかと思います。

さて、諏訪哲史さんはご存じのように芥川賞作家で、『アサッテの人』『領土』などの作品があります。現在は創作活動と並行して、愛知淑徳大学で創作の授業を担当しておられます。
今回の話は、そうした授業での教授経験に基づくものでした。
諏訪さんによると、着任当初、〈承認欲求に基づくクリエイター志向〉の学生が多いことに驚き、彼らを“軌道修正”するところから教育を始めることにしたそうです。
(諏訪さん自身は「軌道修正」という言葉を使っていなかったと思うけど、彼が言いたいことはそういうこと)
そして、その“軌道修正”によって学生をどこに導きたいかというと、「生きること=読むこと」という次元でした。
諏訪さんによれば、小説を書くということは、「生きること=読むこと」という状態が飽和状態に達したとき、やむにやまれず生み出されるものであるそうです。
ですので、小説創作のノウハウを教えるというタイプの授業に対しては、強い違和感があるとのこと。
小説を書くということ以前に、小説に没入することが大切だという考え方で、そうした没入の経験があれば、大学を卒業して社会に出たときにその経験が生きてくる、と。

次の、大橋崇行さんは山田美妙という作家の研究者で、現在は岐阜工業高等専門学校で勤務しつつ、『妹がスーパー戦隊に就職しました』『ライトノベルは好きですか?』『桜坂恵理朱と13番目の魔女』といった小説もお書きになっている作家です。
大橋さんの話は、諏訪さんとは対照的で、小説(ライトノベル)は企画書によって生み出される、という趣旨だったかと思います。
ライトノベルというのは、ジャンルの特性によって拘束されたり、読者の願望によって拘束されたりと、一般的にイメージされるクリエイティビティとは異なるものによって生み出されることを、大橋さんは強調されました。
その上で、ライトノベル作家も調査や取材が必要であり、場合によっては研究者以上に本を読まなければならない、ということを指摘しておられました。

諏訪さんと大橋さんの話の内容は全く対立しており、討議の時間にそれぞれ否定し合うのかな、と思って聴いていたのですが、僕が参加していた17時までの時点では対立は見られませんでした。

以降、僕が感じたことを記します。

諏訪さんの文学観は、とてもロマンチックだと思いました。
「文学」というものが一言では言い表せない(語れない)ものとして存在していて、「〜ではないもの」とか「〜のようなもの」という言い方でしか「文学」を語れない。そして生きることが「文学」である……そんな文学観。
こういう文学観を正々堂々と語れるところに、諏訪さんの強さがあるのかな、と感じました。
(自分はとてもそのような文学観に到達できないのですが……)
また、書くこと以前に読むことが重要だ、という指摘には、なるほどと思わされました。
話を音楽に置き換えると分かりやすい。曲を作る以前に曲を聴くことが重要なのは、言うまでもないですから。
ただ疑問に思ったのは、「生きること=読むこと」レベルまで読書に没頭するのは大切だとは思うのですが、そのように深く文学作品の中に没入する過程で、「他の人はこの作品をこう読む」というのは入ってくるのだろうか……ということです。
「生きること=読むこと」レベルまで行ってしまうと、自己の読みが絶対化されやすい。「生きること=読むこと」それ自体を相対化する契機は、学生たちに用意されるのだろうか?
そもそも、そのような契機は必要ないのだろうか?
この僕の疑問は、質問用紙に記入して司会の方にお渡ししたので、討議の中である程度読んでいただけたのですが、僕が聞きたかった答えは、聞けなかったような気がしました。

一方、大橋さんが仰っていた、「作家も調査や取材が必要」というのは、村上龍なんかを見ていると「その通りだなあ」と思います。
でも、村上龍の場合、偏った調査対象・取材対象を選んでいて、その偏り方が村上龍らしさとして面白いのですが、ラノベ作家たちは偏っているんだろうか?
意図的に偏るようにするってのは面白くなくて、本人はマジなんだけど端から見てると偏ってるというのが村上龍なんだけど、そのへんどうなんだろう?
また、妖怪を取材するってことで、井上円了小松和彦を読むってのはちょっとベタな気がする。
井上円了柳田国男の議論を現代語に置き換えるといっても、それらへの批評性はあるのだろうか? そもそも、批評性はいらないのだろうか?

お二人の話を聞いていると、小説創作法は本当に多様なんだろうけれど、僕には小説が書けないな、という気になりました。
きっとね、僕は小説なんて好きじゃないんでしょう。
だけど、お二人の話は、いろいろ考えさせられるところが大きかったという点で、よかったと思います。

「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけたい

拙著『戦後日本の聴覚文化』(2013年)を出した青弓社さんのHPにある「原稿の余白に」という連載コーナーに、人生初のエッセイを寄稿しました。

  「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけたい
   --------『戦後日本の聴覚文化』を書いて
  http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/yohakuni/blank121.html

そのエッセイの中に、
「何よりも私は自分自身の好奇心で窒息してしまいたい」
というフレーズがあります。これが、僕が書いたエッセイの中で、一番気に入っているフレーズです。

自分のなかを、好奇心で満たしていくこと。そしてできる限り、その心に忠実であろうとすること。
それによって、もやもやとした現状を突破していきたい……と思います。

にしても、エッセイ書くのも読まれるのも、ちょっと慣れてないんで、照れますね。