『まどか☆マギカ』シンポジウム終了!

事後報告になりますが、去る9月8日(日)に開催された「あいち国際女性映画祭」内のシンポジウム「まどか☆マギカ大討論会 魔法少女は世界を救うか?」に、パネリストとして参加してきました。

このタイトルからも分かるように、あの人気アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』劇場版(前後編)を対象とした「討論会」です。
パネリストは、僕以外には、石田美紀さん、斉藤綾子さんでした。お二方とも、映画研究者です。
(前回の紹介記事は、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20130711/1373547543

この映画祭の主催は「公益財団法人あいち男女共同参画財団」です。つまり、フェミニズムジェンダー問題というものを意識した社会作りを目指す公的な組織なのですね。
ですから、このシンポジウムも縛りというかルールがあって、「ジェンダー論的考察」という枠組みの中で議論し合おうというものでした。
言うまでもなく、『魔法少女まどか☆マギカ』は本当に魅力的な作品で、とても1つの視点からだけ論じられるものではありません。
それはパネリスト3人とも重々承知です。
でも、ルールに基づいて行われるスポーツが楽しいのと同様、こういう枠組みの中で議論をするというのも、楽しいんですよ。

ただ3人とも、緊張はしていたと思います。
討論会に来てくださったお客さんたちは、必ずしも『魔法少女まどか☆マギカ』に対するジェンダー論的解釈を望んでいるわけではないでしょうから。
まぁ、僕はアレなので、そういう緊張感があったほうが、逆に「舞いあがっちゃってます」(by 美樹さやか)状態になって、自分でも想定していないようなことを喋りだしてしまい、観客に嗤っていただけるだろう……というサービス精神的な下心が発動するんですけどね。
実際、かなりパフォーマティブだったと思います。
何せ僕は、「羞恥心と自尊心の相転移によって生じる感情エネルギーによって生かされている」わけですから!
恥ずかしいパフォーマンスをすればするほど、僕は生き生きしてくるってわけです。

問題は、僕は普段、ジェンダー論やフェミニズムの理論を援用して研究活動をしているわけではなく、それらの専門書をよく読んでいるわけではない、ということです。
ですから、「ジェンダー論のパロディw」を示してしまうという可能性(危険性)を持っているんです。
その点だけ、フロアにいるかもしれないガチな方から叱られるのではないかという不安がありました。

さて、この『まどか☆マギカ』。本当に多くの評論家や研究者やファンが語り尽くしていて、今から何か新しいことを言うのは大変困難です。ですから、当初僕は、自分の役割は「これまで産出された『まどか☆マギカ』論を接合・整理する」という点だと思っていました。
……いわゆるDJみたいなやつです。
でも、そんな「志の低いことでどうする!?」という「内なる声」が聞こえてきて、「せ、せめて、珍しいことでも言ってやろうか」という気持ちになり、徐々に「ちょっとぐらい挑発的なことを言っても大丈夫かもしれない」という大きな態度になってきました。
(断っておくけど、DJは志は低くないよ)

それで、僕が喋ったこと(喋ろうとしたこと/言外に匂わせたこと)は、およそ次の3点だったとおもいます。

【1】『まどか☆マギカ』は、「魔法少女もの」というジャンルに位置づけられてきた。脚本家の虚淵さんもジャンルを意識していたし、評論家たちも従来の「魔法少女もの」と比較して斬新だとかそうでないとか論じてきた。しかし、別にジャンルに固執してみる必要はないではないか。たとえば僕はこの作品を、「現実が複数のレイヤーによって構成されている中、主人公たちがそうした状況の中で翻弄されながら、彼らの目指すべきを進んでいく物語」として捉えた。別に、「魔法少女もの」として観てはいない。「現実が複数のレイヤーで〜」という視点で『まどか☆マギカ』を捉えることができれば、『輪るピングドラム』『交響詩篇エウレカセブン』『パプリカ』『あの花』などと並べて論じることもできるだろう。

【2】まどかの母・詢子は、比較的評価が高い。虚淵さんも詢子を「まどかのモデル」として捉えているし、評論家たちの多くも同じ理解に基づきながら、「母から自立する娘の成長物語」として『まどか☆マギカ』を位置づけようとしていた。しかし、そんなに詢子はいいヤツなのだろうか。詢子はまどかの内面を“管理”の対象としており、その上で異性愛教化を行っている。その意味で、「内面管理のインフラに支えられた異性愛教化システムに回収されたまどかによる、システムからの離脱を目指す物語」と読むことも可能になるだろう。多くの人びとに概ね好意的に受け入れられている詢子を批判的に捉え直すことで、従来の『まどか☆マギカ』論が隠蔽してきた〈暴力〉を顕在化させることができるだろう。

【3】魔法少女が汚れを溜め込んで魔女になるという一連のプロセスは、作中においてキュゥべえによって「成長」のレトリックで語られているが、視聴者であるわれわれは(もちろんまどかやほむらも)、このキュゥべえの語り(=騙り)によって「魔女」を理解してしまっているのではないか。われわれが「魔女」的なものの深淵の側から覗き込まれる契機を、「成長」の物語とは別の枠組みで捉えても良いのではないか。

およそ、こんなようなことを僕は考えて、(部分的に)発言したのでした。

人文系の研究者の目的の1つには、〈価値観の固定化による視野狭窄や暴力の発生を点検し、そのことへの注意を喚起すること。そんな固定化された価値観を相対化すること。〉があると思います。
別に、無理して珍奇な『まどか☆マギカ』論を生み出す必要は無いのかもしれないですし、定説に納得してるというのも悪くないのかもしれません。
しかし、定説とされているものを疑ってみること、別の視点を積極的に取り入れてみることによって、私たちの想像力も次の段階に進めるかもしれないのです。
……わざわざキュゥべえと契約しなくても、なのです。

それにしても今回のシンポジウムは、昨年の『けいおん!』シンポジウムに比べて、パネリストとお客さんとの距離が近く、お互いに、相手の顔を見ながら意見交換をすることができました。
僕たちでさえ緊張していたのに、フロアから本当にたくさんの人が発言してくださいました。
その勇気を、何よりも尊敬したいと思います。

シンポジウムに関わってくださった、あらゆる方々に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。
お疲れさまでした!