昭和文学会・秋季大会に参加して

最近、学会に参加していませんでした。
その主な理由は、時間の都合がつかなかったからです。
学会は主に土日に行われるものですが、土日というのはたいがい家庭の用事が入るものですし、校務でも土日がつぶれることがあるので、学会に参加したくてもできないことが多かったのでした。
また、「万難を排してでも聴講せねば」と思う機会が少なかったのも事実です。……しかしこの考え方はダメですよね。自分に関係ないと思うような研究発表の中に驚きの発見をするというチャンスを、自ら手放していることになりますから。

そんななか、昨日(2013年11月9日)に昭和文学会の秋季大会が行われました(@金城学院大学)。
「群衆と文学 戦後から現代へ」という特集でした。
金城学院大学は名古屋にありますし、家から近いと言えば近い。午前中に家の用事はあるものの、遅れて参加することはできそうだ。それに、たまには学会ならではの緊張感を味わっておかないと、だらけてしまう。……などの理由から、参加してみることにしました。
いや、それよりもっと強い理由もありました。研究発表のほかに講演もありまして、その演者が、音楽評論などもされている文芸評論家・陣野俊史さんだったのです。
僕は、拙著『戦後日本の聴覚文化』(2013、青弓社)もありますように、文学と音楽のことを研究対象にしていますので、陣野さんが「群衆」にからめてどんな音楽の話を織り交ぜてくれるのだろうか、という楽しみもあったわけです。

それで、遅刻して参加したわけですが、実際にまともに聴くことができたのは、次の二つでした。

・立尾真士「〈エネルギー〉と〈エコノミー〉  村上龍における〈群衆〉」
陣野俊史「人はどのように群れてきたか  80年代から現在までの小説について」

目的は陣野さんの話を聞くことでしたが、その前に発表なさった立尾さんの話の中に、実は音楽が出てきたのでした。これはラッキーでした。
しかし……なまじ音楽のことを考える機会が多いので、お二人の話を聞いていて、疑問点(不満な点?)も湧いてきてしまいました。
そこで、自分の考えを整理するためにも、お二人の話についての感想を記そうと思います。

しかし、予めお断りする必要があるでしょう。
ここに書くことは、発表会場で、本人たちに直接伝えることができなかったことばかりです。
発表会場での10分程度の質疑応答の時間の中で、自分の考えをうまくまとめることができなかったのです。僕は無能なのです。
うまくまとめることができないまま喋りだしてしまうというのは、相手に対しても、他の聴衆に対しても、失礼なことです。
それに、「群衆」がメインの話の中で、「音楽」の話題で相手に問いただすということは、限られた質疑応答の時間の中、しかも聴衆の殆どが「音楽」にさほどの興味を持っていない中、すべきことではないだろうという判断もありました。
「僕がチキンだから」という理由もあるのかもしれません。←いや、これはないかな。最近何だか「恥知らず」な人間になってきているから。

以下に記すことは、お二人に対する批判(のようなもの)を若干含むかと思います。
しかし、学会という緊張感漂う中で持論を展開するということの大変さは、僕も身をもって経験していますし、そうした経験をなさっているお二人に対する敬意は忘れていないつもりです。
そこだけ、お断りさせてください。
もしこの文章を読んでくださる方がいたとしても、ここに書いてあることは所詮「後出しジャンケン」であるということを、ご理解ください。


・立尾真士「〈エネルギー〉と〈エコノミー〉  村上龍における〈群衆〉」

村上龍『愛と幻想のファシズム』『希望の国エクソダス』のそれぞれに描かれている群衆的存在に目を向け、両者が孕んでいる「希望」の質の違いを浮き彫りにしつつ、それぞれの群衆的存在がシステムに対立しつつも、結果的にそのシステムの論理を模倣しつつ回収されていくということを暴き出した発表でした。
村上龍の小説って、じっくりその文体を味わう文章、というより、情報群って感じがするのですが、その膨大な情報群を精査して、持論を組み立てていく立尾さんの手際は大したものでした。それに、とても早口だったのですが、彼の論旨は僕の頭の中に入ってきやすかったし、要点をかいつまむのが上手いなあと思いました。
さて、問題の「音楽」は、前出の二作品の分析が終わった後に出てきました。
村上龍の『五分後の世界』に描かれる「ワカマツ」という音楽家の音楽(まあテクノでしょうね)とそれに陶酔する聴衆のありよう(レイヴの空間の描写)は、前出の二作品に描かれる限界含みの群衆的存在とは異なり、「市場経済の合理システム」に回収されない潜勢力を持つものだ、と立尾さんがおっしゃったのです。
……ここで僕は「ん?」と思うわけです。
まず、ダンスミュージック(だと思うのですが)が醸成させる情動が、システムのロジックに回収されない云々の話って、音楽評論などでよく見かけるパターンですよね。音楽論的に言って、凡庸なのでは?
そんな凡庸な考えを、今回の発表の結論に持ってきてしまって、大丈夫なのかしらん。
むしろ、凡庸な音楽論を小説の中で展開させてしまった村上龍の想像力を、検証すべきでは?
でも、村上龍の音楽に対する想像力を検証することは、「群衆」をテーマとした学会において求められることではないし、むしろ僕が自分の仕事にすればいいことです。
もう一点。
五分後の世界』の中に登場するこの「ワカマツ」という存在。これは決してアナーキーな存在ではなく、「アンダーグラウンド」(=システム)の中でも割と特別な存在として容認されているのでは? とすると、ワカマツがかりにシステムから逸脱する群衆を創出したとしても、それはシステムが生み出したものなのでは? その意味では、システムに回収されているのでは?
……いつか立尾さんにお答えを聞いてみたいです。


陣野俊史「人はどのように群れてきたか  80年代から現在までの小説について」

講演という形態の問題もあるのでしょうが、非常にくだけた感じで、聴衆に対するサービス心を忘れないお話でした。
陣野さんは、集英社の「コレクション 戦争×文学」の編者だったこともあり、戦争と文学の関係を意識しながら、これまで小説が「群衆=デモ」をどう描いてきたかについて、まとめておられました。
あくまで描写の水準でデモを扱っておられたので、陣野さん自身がデモをどう評価するかということは、棚上げにされていました。
語り手がデモとどういう距離感にあるのかということを重要視していて、デモに積極的に参加したい意識があるわけではないがすっとその中に自然と巻き込まれていくような感覚というものが近年の小説には見られるという話が印象的でした。
音楽については……思っていたよりも出てきませんでした。
ただ、いとうせいこう佐々木中の小説が話題に上がったのですが、彼らは「既に誰かによって書かれた小説を再構成すること」を小説手法としている、とした上で、そうした手法はサンプリングを用いた「ヒップホップ的」なものだそうです。
……え、ヒップホップ的? サンプラーを使った音楽って、ヒップホップだけじゃないじゃん。ブレイクビーツ使ったテクノはどうなるの? 「サンプリング=ヒップホップ」って、どれだけヒップホップは特権的なの?
陣野さんは、佐々木中『夜を吸って夜より昏い』の中に「よる」という音(おん)が多用されている一節を取り上げ、「ラップ的」「同じ音をくり返すヒップホップ的」とも言うのですが、ラップなんて、J-POPにも見られるし、「同じ音をくり返す」だったら、それこそテクノじゃないですか。
いとうせいこうだからヒップホップ、佐々木中だからヒップホップ、っていうなら「リンゴだから赤い」「みかんだから甘い」と変わらないですよね。
それにヒップホップって、音の傾向や手法の問題だけでなく、社会性とか政治性とか、文化の中で帯びざるを得なかった意味というものがあると思います。そういうのをすっ飛ばして「ヒップホップ的」と言ってもいいものなのでしょうか。
「○○的」という言い方って、とても便利だし、日常においてよく用いる形容表現だけど(僕も多用するけど)、結局何も言ってないに等しい…というときがあります。音楽と文学のそれぞれの表現に対してこだわりがある陣野さんだからこそ、そのへんの表現にも厳しくなっていただきたかったです。
だけど、陣野さんのお話を聞いていると、職業柄とはいえ、本当にたくさんの小説を読んでおられるんだなということがわかります。
そのへんについては、本当に敬服しました。


自分の考えを他人に向かって開陳することって、快楽を伴うと同時に、危険をも伴います。でも危険を伴っているからこそ、快楽的なのでしょう。学会に参加することで、そうした快楽に耽っている誰かを見ることによって、「自分もまたそうした快楽に耽りたい」と思ったりします。
今年は、9月の『魔法少女まどか☆マギカ』シンポをはじめ、そうした快楽に耽る機会に、僕自身、割と恵まれていました。ありがたいことです。
2013年も残り僅かですが、あと少しだけ、そうした快楽に耽る機会が得られそうです。
本当に、僕自身、楽しみです。