シンポジウム(2014年3月29日)聴講しての、雑感

先日、次のようなシンポジウムを聴講しました。

日本近代文学会東海支部・2013年度シンポジウム
テーマ:現代小説の進行形  文学研究にとっての創作・研究・教育
パネリスト:諏訪哲史大橋崇行松本和也(敬称略)
日時:2014年3月29日(土)14時〜
場所:愛知淑徳大学星が丘キャンパス

大学という教育機関で「文学」「小説」というものを扱うとなると、もっぱら〈読む対象・分析する対象〉として扱うということがイメージされがちなのですが、実際には、〈創作するもの〉として扱うということがなされています。
そうした現状を踏まえつつ、「創作」「研究」「教育」という三つの項がどのように関係しうるのかということを、パネリストそれぞれの立場から語る……そんなイベントでした。
ただ、3人のパネリストのうち松本さんは主にまとめ役という感じでしたから、実際のところは諏訪さん、大橋さんのお話ということであったかと思います。

さて、諏訪哲史さんはご存じのように芥川賞作家で、『アサッテの人』『領土』などの作品があります。現在は創作活動と並行して、愛知淑徳大学で創作の授業を担当しておられます。
今回の話は、そうした授業での教授経験に基づくものでした。
諏訪さんによると、着任当初、〈承認欲求に基づくクリエイター志向〉の学生が多いことに驚き、彼らを“軌道修正”するところから教育を始めることにしたそうです。
(諏訪さん自身は「軌道修正」という言葉を使っていなかったと思うけど、彼が言いたいことはそういうこと)
そして、その“軌道修正”によって学生をどこに導きたいかというと、「生きること=読むこと」という次元でした。
諏訪さんによれば、小説を書くということは、「生きること=読むこと」という状態が飽和状態に達したとき、やむにやまれず生み出されるものであるそうです。
ですので、小説創作のノウハウを教えるというタイプの授業に対しては、強い違和感があるとのこと。
小説を書くということ以前に、小説に没入することが大切だという考え方で、そうした没入の経験があれば、大学を卒業して社会に出たときにその経験が生きてくる、と。

次の、大橋崇行さんは山田美妙という作家の研究者で、現在は岐阜工業高等専門学校で勤務しつつ、『妹がスーパー戦隊に就職しました』『ライトノベルは好きですか?』『桜坂恵理朱と13番目の魔女』といった小説もお書きになっている作家です。
大橋さんの話は、諏訪さんとは対照的で、小説(ライトノベル)は企画書によって生み出される、という趣旨だったかと思います。
ライトノベルというのは、ジャンルの特性によって拘束されたり、読者の願望によって拘束されたりと、一般的にイメージされるクリエイティビティとは異なるものによって生み出されることを、大橋さんは強調されました。
その上で、ライトノベル作家も調査や取材が必要であり、場合によっては研究者以上に本を読まなければならない、ということを指摘しておられました。

諏訪さんと大橋さんの話の内容は全く対立しており、討議の時間にそれぞれ否定し合うのかな、と思って聴いていたのですが、僕が参加していた17時までの時点では対立は見られませんでした。

以降、僕が感じたことを記します。

諏訪さんの文学観は、とてもロマンチックだと思いました。
「文学」というものが一言では言い表せない(語れない)ものとして存在していて、「〜ではないもの」とか「〜のようなもの」という言い方でしか「文学」を語れない。そして生きることが「文学」である……そんな文学観。
こういう文学観を正々堂々と語れるところに、諏訪さんの強さがあるのかな、と感じました。
(自分はとてもそのような文学観に到達できないのですが……)
また、書くこと以前に読むことが重要だ、という指摘には、なるほどと思わされました。
話を音楽に置き換えると分かりやすい。曲を作る以前に曲を聴くことが重要なのは、言うまでもないですから。
ただ疑問に思ったのは、「生きること=読むこと」レベルまで読書に没頭するのは大切だとは思うのですが、そのように深く文学作品の中に没入する過程で、「他の人はこの作品をこう読む」というのは入ってくるのだろうか……ということです。
「生きること=読むこと」レベルまで行ってしまうと、自己の読みが絶対化されやすい。「生きること=読むこと」それ自体を相対化する契機は、学生たちに用意されるのだろうか?
そもそも、そのような契機は必要ないのだろうか?
この僕の疑問は、質問用紙に記入して司会の方にお渡ししたので、討議の中である程度読んでいただけたのですが、僕が聞きたかった答えは、聞けなかったような気がしました。

一方、大橋さんが仰っていた、「作家も調査や取材が必要」というのは、村上龍なんかを見ていると「その通りだなあ」と思います。
でも、村上龍の場合、偏った調査対象・取材対象を選んでいて、その偏り方が村上龍らしさとして面白いのですが、ラノベ作家たちは偏っているんだろうか?
意図的に偏るようにするってのは面白くなくて、本人はマジなんだけど端から見てると偏ってるというのが村上龍なんだけど、そのへんどうなんだろう?
また、妖怪を取材するってことで、井上円了小松和彦を読むってのはちょっとベタな気がする。
井上円了柳田国男の議論を現代語に置き換えるといっても、それらへの批評性はあるのだろうか? そもそも、批評性はいらないのだろうか?

お二人の話を聞いていると、小説創作法は本当に多様なんだろうけれど、僕には小説が書けないな、という気になりました。
きっとね、僕は小説なんて好きじゃないんでしょう。
だけど、お二人の話は、いろいろ考えさせられるところが大きかったという点で、よかったと思います。