「人外に恋しても」

昨日、非常勤先である愛知教育大学で、
「人外に恋しても」
というタイトルのプレゼンをした。

「国文学演習」という授業で、学生たちに研究発表をさせていて、それに対するコメントを僕がする……という演習形式の授業をおこなっていた。
扱っていた素材は、森見登美彦有頂天家族』と『四畳半神話大系』。

しかし、学生の発表を聞いているうちに「自分ならこう論じたい」と思うようなことも生じてきたり、「私たちにやらせるのはいいけど、じゃあ、先生ならどう発表するっていうのさ?」という学生の“声なき声”が聞こえてくるような気もしたような気もして(本当には聞こえてこなかったけど)。
そういうわけで、自分が自分に宿題を出すような気持ちで、発表を担った、ということになる。

人間と人間以外との恋愛関係について考えるというこの内容は、今回の授業とは別に、自分の中で考察していたものである。
このブログでも言及したことがあるのだが、
http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20150130/1422557748
僕の本務校である椙山女学園大学で、アニメ・マンガ研究支援プロジェクトをやっていて、そこで研究同人誌『るいともっ!』というのを作っているのだが、そのVol.3に掲載するための文章として、同じ題名のエッセイを既に書いていたのだった。
その文章を、口頭発表用にまとめ直して、昨日学生の前でプレゼンをしたのである。

人間と人形との関係ということで、西尾維新憑物語』の一節も引用し、朗読したのだが、そのときに、アニメでの忍野忍の話し口調を真似てみたのじゃ、お前様。

……。

もし授業を受けた学生で(受けていない学生でも全然OK)、読んでみたいという風変わりな人がおりましたら、今年の4月以降の展開にご期待あれ。
アニメ・マンガ研究支援プロジェクト自体も、来年度は攻めでいきたいと思うておる。


ところで。
この「人外に恋しても」という発表なんてまさにそうなのだが、僕の研究の仕方には、ある方法的な特徴がある。
他の研究者もそうかもしれないけど、少なくとも「僕はこうしているよ」というのがある。
それは、

  自分に対してむちゃぶりをして、それをクリアする!

というものだ。
大変素朴ではあるが、僕にとっては大切な手続きだ。
自然に心惹かれるものを論じるのではなく、「むちゃぶり」によって自分の知見を広げていくという感じ。

例えば、「幻聴ではなく、本当に聞こえたんだ、という理屈を組み立てよ」とか「幻視ではなく、本当に見えているんだ、という理屈を組み立てよ」とか、そういう「むちゃぶり」を自分に対しておこなって、その理屈を組み立てるための材料を集めたりしていく。
もちろんその理屈は、「屁理屈」であったり「詭弁」であってはいけなくて、「幻聴でしょ?幻視でしょ?」という人たちを説得できるものでなければならない。
説得できる材料を用意し、だからこういうことが言えるんだ、というものを示すことで、“客観性”というものを構築していく。

もちろん、こうした研究方法は、ある意味で「結論ありき」なものなので、弊害はある。
弊害だらけかもしれない。
都合のいい材料ばかりを集めたくなる、そんな欲望との戦いが待っている。
むちゃぶりしなければ、そんな不毛な戦いをせずに済むのかもしれない。
しかし、逆に、都合の悪い材料をあえて俎上に載せ、それらを論破していくことで、持論が補強される。
そして、むちゃぶりを自らクリアすると、それなりの達成感も得られる。
もちろん、新たな課題も見つかる。
だけどそれは、次の研究のモチベーションにもなる。


僕は職業柄、学生を前にして、研究方法について語る機会が多くある。
……それが職業だし。
いろんな研究方法が実際あるし、その時々によって、語る内容も異なったりもする。
しかし、基本的に曲げることのない軸として、「研究は楽しい」というスタンスは伝えるぞ、という気持ちがある。
自分が「楽しい」と思えないことを、他の人に薦めることなんてできやしない。
「卒業のために仕方なく研究しようね」とか、「面白くないけど頑張ろうね」なんて、学生も聞きたくないだろう。
……すっごく“自己肯定感まる出し”な感じだが、自分が楽しそうに研究したり、研究することに面白がっているその姿勢が、学生へのメッセージになると思う。

そりゃあ、研究者って努力の割に稼ぎは少ないし、世間離れしていて社会的にも馬鹿にされているところもなくはないし、将来性がよく分からないけれど。
しかめっ面して研究してたって、周囲が暗くなるだけ。
勝手にやってろ!って感じ。

だから、自分としては、今までどおり、面白がってやっていきたい、と思っている。