ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』読了

かなり時間がかかったのですが、ようやく読了しました。
ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』(新潮社、藤井光訳)。
かなり充実感はあったのですが、ズシンと来るというよりは、苦い味がじんわりと口の中に広がる感じですね。読了感は。

かつて内戦時に反政権的な演劇をおこなっていた劇団「ディシエンブレ」を率いていたヘンリーは、政治犯としての罪を着せられ投獄されていた。その間にヘンリーはロヘリオという男性と深い関係になるが、囚人としての生活は彼を絶望に陥れるものであった。
その後ヘンリーは、周囲の勧めもあり、いまや伝説と化したディシエンブレを復活させ、かつて演じたことのある『間抜けな大統領』という演目を国内のあらゆる場所で上演することにしたのだが、そこにネルソンという若者が加わることになる。ネルソンは、伝説的なディシエンブレに憧れを持っていた。ネルソンはヘンリーと衝突しながらも、『間抜けな大統領』の上演に没頭していく。
しかし、ある田舎町(それは亡きロヘリオの故郷であった)でネルソンは、「ネルソン」であることを失ってしまうような経験に巻き込まれてしまう。そしていろいろバタバタしたことがあり、やっとのことでネルソンは首都に戻るものの、かつての恋人はネルソンを拒み、ネルソンは殺人の容疑で逮捕されてしまう。

……以上のような出来事を、語り手である「僕」が、ネルソンの周辺人物に取材をしながら、その語りによって再現していく。
取材を受けている者自身の生の声と、「僕」の想像力によって構想されていくネルソンの物語とが、交錯しながらテクストを形成していく。
雑誌記者である「僕」は記事にしていくつもりで、ネルソンに興味を持ち、ネルソンの周辺を取材し始めたのだった。
だけど最後、「僕」は囚人としてのネルソンと面会して拒絶されてしまう。
ネルソンは言う、「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」。
ネルソンが「奪ってきた」者としているのは、おそらく「僕」も含まれている。そしてこのような読みが成立するとき、ネルソンのことを語ろうとするその行為こそが〝収奪〟を意味することになる。

文学研究をしていると、「他者の内面を語ろうとする行為=他者の内面の横領という名の暴力」という解釈を文学テクストに対して行う論文に出くわします。自分も書いたことがある、かな。
そのような解釈に慣れている者にとっては、この小説の内容はありふれているものであるのかもしれない。
でも、そういうありふれた解釈をしただけでは片づかないような後味を、この小説は残してくれます。
そのあたり、まだうまく言葉にできないけれど。
……読んで良かったなと思いました。

ダニエル・アラルコンには『ロスト・シティ・レディオ』というデビュー作があるのですが、まだ僕は読んでいません。
ぜひ読んでみたいと思います。