エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』を読んで

少し前に、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』(岩波文庫)を読み終えました。

エイモス・チュツオーラ(1920〜1997年)は、ナイジェリア出身の作家です。
小さい頃は家庭の事情で本人が満足いくような勉強はできず、学業を断念して労働したり軍隊で勤務したりという経験の持ち主なのですが、そんな中で創作活動を行い、『やし酒飲み』(1952年)や『薬草まじない』(1981年)などの作品を残して、西洋の人々を驚かせたアフリカ文学の担い手であるようです。
先に僕は『薬草まじない』を読んでおり、それについてこのブログでも書きました。
http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20160316/1458113347
僕にとって『やし酒飲み』はチュツオーラの小説は2作目になります。

まずこの小説は、次のような魅力的な一節から始まります。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。(岩波文庫、7頁)

自分のことを「やし酒飲み」と規定するところが、まずもって面白い。
これは岩波文庫に収録されている多和田葉子さんの解説「異質な言語の面白さ」でも言及されていることですが、「酒飲み」という自己規定は一般的かもしれないけれど、「日本酒飲み」「葡萄酒飲み」「麦酒飲み」という酒の種類に応じた自己規定というのは、少なくとも日本では一般的でないかもしれない。
多和田さんは「「わたしは、やし酒を飲む人間である」というのは随分ラディカルなアイデンティティーの提示だと思う」(岩波文庫、227頁)と記しているけれど、僕もそれには共感します。

さて、この「わたし」はとにかく「やし酒飲み」なのですが、父が用意してくれた自分専属のやし酒造りが亡くなってしまったため、死者が住む町に会いに行くという冒険が、この小説の中心的な物語になります。
そういう意味では、『やし酒飲み』は、自らのアイデンティティを守ろうとする「わたし」の物語、と言えるかもしれません。

そんな中、興味深い点が2つあります。

まず1つめ……「わたし」はこの冒険に妻を連れてきているのです。
妻は、「やし酒を飲み続けたい」という夫に黙ってついていきます。妻の考えや気持ちが語られることはほとんどありません。途中でかなり危険な目にも遭うのですが、基本的に妻は夫に文句を言うことがありません。
男にとって都合の良い女、男のアイデンティティの形成に奉仕するだけの女……そういう解釈もできるかもしれません。
でも、この妻は得体の知れない相手に夫を売ろうとしたり、夫に予言をしたり、あくまで「他者」として描かれている感はあるのですが、物語の途中から急に存在感が増してきて、そこが魅力的でした。
僕が先に読んでいた『薬草まじない』では、不妊で苦しむ妻のために一人で冒険する男の話だったので、余計にこの妻の存在感を感じたのかもしれません。

興味深い点の2つめ……森林(ブッシュ)で出会う存在が、相変わらず得体の知れないものばかりである、ということです。
「頭ガイ骨だけの紳士」とか、「二枚の長い胸をもち、その胸の奥深くに、目がついていて、見ただけでも醜悪な、身の毛もよだつ恐ろしい生物」である「まぼろし」とか、およそビジュアルにイメージすることが困難な存在が登場するのです。
このような読者によるイメージ形成を困難にするような語りが展開されることで、この物語の幻想性は構成されていくわけですが、やはりそれは〈語りの問題〉として存在しているのです。

先ほどの引用にもあったように、この『やし酒飲み』は、「だった」と「でした」が混在しています。
単なる訳し分けの方法論の問題なのかもしれませんが、おそらくそういうことではないのでしょう(多和田さんも同意見)。
この『やし酒飲み』の物語構造は、語り手である「わたし」による冒険譚を読者(聴き手)に報告するという形式になっており、時々「これが〜の話のてんまつです」というフレーズが挿入されています。
つまり、自分の経験をドラマチックに語る(騙る)ということが、ここでは行われているのです。
そのような語りの姿勢のもと、実際に存在する事物に対する写実的な(リアルな)描写以上に、「二枚の長い胸をもち、その胸の奥深くに、目がついていて(略)」のような超写実的な描写が存在感を際立たせていくのです。

ですが、そのように私たちにとっては「幻想的だ」「ビジュアルにイメージできない」「超写実的だ」と思われるような森林(ブッシュ)の生物たちですが、文庫に解説を寄せている土屋哲さん(訳者でもある)によると、「恐怖」の源泉として描かれるその森林(ブッシュ)のありようこそが「アフリカ人にとっての「リアル」」(195頁)であるそうなのです。
おそらく日本人の私たちにとって「怪異」という存在が、嘘くさいもののように思いながらも完全なる嘘として斥けることができないのと同様に、アフリカ人にとって森林(ブッシュ)が存在しているのでしょう。

現実とは何? 虚構とは何? ということを研究対象にしながら、その研究をライフワークにしている僕にとって、この『やし酒飲み』は『薬草まじない』同様に大変興味深い小説でした。

また時をおいて、両作品に手を伸ばしてみたいと思います。