ETVの細野さん特集を見て考えて

そう言えば、この前の日曜日の夜に、ETVの特集で細野晴臣さんを取り上げていました。そして、それを見て色々と感じたことを思い出しました。
いま我が家には録画機能を持つ機械がないので、TVを見ることは“一回性”の出来事なのです。だから、割と集中して見ていました。

ところで細野さんと言えば、僕は一昨年に昭和文学会という学会で細野さんの実践に関する発表をしたことがありました。そこで細川周平さんとご一緒して、いろいろとお話しすることもできました(細川さんとはその時が2回目である)。

僕の個人的な趣味を言えば、細野さんの仕事でいちばん好きなのは、『トロピカル・ダンディ』や『泰安洋行』。YMOのほうを先に知ったのですが、エキゾチックな細野さんの曲のほうが好きです。

さて、そのETV。奇しくも、「3.11」が起こったちょうどその時の細野さんをカメラが捉えていて、「3.11」以降の細野さんの心境が焦点化されていました。
細野さんは「3.11」以降、1か月ほど音楽に関わることができなかったらしく、今回の出来事を機に、音楽家としての自分の人生のあり方を深く考えるようになったという旨の発言をしておりました。映像を見る限り、あまり元気には見えませんでした。

僕は、そんな細野さんの発言を聞きながら、思ったことがあります。

僕は文学研究者・音楽文化研究者のはしくれですが、人文系の学者にとって「3.11」は自らの思考や哲学、そして研究者としての立ち位置を再検討する機会になったことは間違いないでしょう。でも、再検討をするという身振りそのものが前景化してしまうということはないのだろうか。「再検討しなきゃ!」って元気になってしまっている人もいるんじゃないだろうか。「3.11」を自らの元気の養分にしてしまっているような人もいるんじゃないだろうか。
それって、ちょっと、イビツだと思う。

今まで経験も想像もしたことのないような出来事が起こって、自分の思考や哲学を再検討するということは、もちろん重要だと思います。でも、再検討する自身の身振りそのものを再検討するような視点がないと、本当はいけないんじゃないかな。

何も変わらない、というのは問題。黙りこくってしまう、というのも問題。ナイーブであることに開き直る、というのも更に問題。「再検討」ってのは、厳しいことなんです。

で、僕は、まだ自分について検討しきれていません。課題はあまりにも山積みです。