国際文化フォーラムでの記憶、メモする。

昨日の国際文化フォーラムは、人間・アンドロイド・ロボットについて考えるというものだったけれど、他の人の発表を聴いて、自分のなかで触発されたことや疑問に思ったことを、とりあえずメモしておきたい。


癒しロボットについて:
(1)ロボットは死なない。死なないことが人間にとっての「癒し」。それはよくわかる。でも、死ぬ、ということが「癒し」につながるということもあるのでは? 「癒し」はコミュニケーションによって成立するものだとするならば、人間とロボットが同じ時間を共有したという〈物語〉が「癒し」を用意する条件だとも言えるはず。同じ時間を共有したという実感を強化するのは、成長とか老化じゃない? だったら、ロボットにも老化という概念は必要で、最終的には「死」があってもいい。死別という別離があるからこそ、双方が「今」を大切にして、その「今」のコミュニケーションを大切にするのでは?

(2)ロボットが、エラーやバグによって正常な動きをしなかったとき、〈空白〉が生まれ、解釈可能性が生まれ、ロボットの〈心〉が(人間によって)読み込まれる。人形もそう。映画『空気人形』の場合は? 小説『人でなしの恋』はエラーはないけど。パフュームの曲に「絶対故障だ、ていうかありえない。僕が君の言葉で悩むはずはない」みたいなのがあったぞ。

(3)フォーラムが行われた場所が場所だけに扱いはデリケートなんだけど、やはり「性的」な癒しの問題は避けて通れない。特に、老いと性とロボットの場合を考えたとき、そのロボットの顔を「初恋の人」にするとか「死んだ妻(あるいは夫)」にするとか、記憶の問題が大きく存在する。


身体2.0について:
とりあえず、現段階では僕が勝手に言っている。
実体的な身体(1.0)とは異なり、いないはずの存在を目の前に感じてしまう(現前しているかのように感じる)ような身体の次元を2.0として考える。
無論、「2.0」という言葉を使う以上、不特定多数の主体の参与という問題も考えておかなければならない。これは今後の課題。
あとこれは、単に「オタクの現実逃避」みたいな話ではない(無論、そういうのでもいいけど)。QOLにつなげて考えないといけない。
ALSの問題だけじゃなく。
今回の原発事故みたいなものが起こったりするからなおさら、身体2.0の領域というのは用意されておかなければならない。
ゴーグルつけたりヘッドギアつけたりしてようやく感覚できる領域というのではない。
まだまだ理論武装が必要。早く単著出さねば。