現時点で思う『中二病でも恋がしたい!』

タイトルの秀逸さと、小鳥遊六花ちゃんの可愛さ目当てで観ているアニメ『中二病でも恋がしたい!』。
現時点で思うことを、メモしておこうと思います。
もちろん、今後の物語の展開次第では、僕のメモも「的外れ」になるかもしれません。
でも、それならそれで良し、です。
ちなみに僕は原作(小説版)を読んではいません。アニメのみです。
ですので、本当に「的外れ」かもしれません。

思っていることは2点です。


上に「タイトルの秀逸さ」と書いたけど、実は、ちょっとムカついています。
中二病でも恋がしたい!」……この言い方には、「中二病のくせに恋なんかしやがって」という見方が前提としてあります。
そうした見方に対して抗う言葉として、「確かに僕/私は『中二病』かもしれないけど、だからって恋をしちゃいけないってことはないと思う!」=「中二病でも恋がしたい!」が来ると思うんですね。
タイトル中の「でも」という語には、そういう〈前提的見方への対抗〉という政治性があると思うわけです。

で、僕が思うのは、「恋をするのに自分がどんな立場や思考回路の持ち主かなんて関係ねえだろ?」という、すっげー青臭いことです。
上のところで「〈前提的見方への対抗〉という政治性」と書いたけど、この政治性って何だか〈社会的弱者の政治性〉って感じがするんですよね。
だけど、こう、自らを〈弱者〉の位置に規定しようとするのは他ならぬ自分なんじゃねえか、と。
何て言うのかな、卑屈さを感じる。
その卑屈さが、〈前提的見方〉を正当化・強化しているんですよ。……これがちょっと嫌。

だけど、すごくキャッチーなタイトルだとも思う。
僕がムカついてしまった、ということは、結局、このタイトルにやられてしまった、ということなのだと思います。


次に、最近の物語展開(第10話まで)が、ちょっとどうかと思ってしまうんです。
六花が「不可視境界線が……」と言っているのは、実は、父親が死んだことを六花なりに受け容れようとしていることが理由となっています。
つまり、精神的な防衛機能としての「中二病」発症ということなのでしょうか。
僕は……、そんな真っ当な理由がついてしまったことに、少し残念な気持ちを覚えます。
だって、そんな理由がついてしまったら、「中二病」に無理解な人にも納得がいってしまうじゃないですか。
でも、もっと残念なのは……、
富樫勇太を含む周囲が、そうした六花の想像力を現実逃避的なものとして解釈してしまおうとするところです。
そして無理やり、六花の「中二病」を終わらせようとするのです。

「父は死んでもういない」と考えることが、「現実」的で理想的だ、
「父は〈向こう側〉に居るから、〈向こう側〉との交信を図りたい」と考えることが、「現実逃避」的でありえないことだ、
……と、そういうことですか?
どんだけ「リア充」志向なんすか?


最後はどんな終わり方をするんだろうか。
きっと六花は再び「中二病」をこじらせることになるんでしょう。
そういう予想は立つのですが、それでも思わず書いてしまう。
……それだけ僕は、物語に入り込んでいるということなのでしょうか。


10月に入ってから、アニメをいろいろ見始めていましたが、結局、今の時点でどうしても観たいなと思って観ているのは、
 ・中二病でも恋がしたい!
 ・リトルバスターズ!
 ・神様はじめました
の3本に絞られてしまいました。
あとは、録画してなかなか観れていない、という現状です。
となりの怪物くん』も観ていますが、大島さんを応援する身としては、主役の2人にイライラしてしまう。

……感情的になって観ているってことは、一体僕はどれだけ前のめりなんだ!