平野啓一郎『私とは何か』講談社現代新書

最近調子よくブログを毎日更新していたのですが、体調不良により、また数日ブランクが空いてしまいましたね。

そんな体調不良の中、細々と読んでいるのが、

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書

です。
まだ読みかけなんですけどね、途中経過で感じたことを書き綴ります。

以前このブログでも『決壊』という平野さんの小説をとりあげたこともありますが、彼が提唱している「分人主義」については、僕も関心がありました。
その「分人主義」をうまく整理したものが、この新書になるかと思います。
分人主義とは何か。彼自身の言葉を借りると、

一人の人間は、「分けられないindividual」存在ではなく、複数に「分けられるdividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。(62頁)

ということですかね。
「個人」というものに対する考え方を見直そうというのが、この分人主義の基本的な立場ですね。
「個人」という考え方があるからこそ苦しんでいる現代の人々がいますからね、そういう人たちのことを視野に入れた議論になっているのかと思います。

一人の人間をdividualとする考え方は、その人間の「人格」に限った話ではないはず。
複数の「自分」に見合った複数の分裂した身体というものがあると思う。
そうした身体の問題は、最近の僕がずっと考えていることで、過去に書いた初音ミク論や室生犀星杏っ子』論や、小島信夫『別れる理由』論は、そうした関心の領域で書かれたものです。
だから、僕の身体論は、平野さんの分人主義を「応用」したものとして成り立つでしょう。

平野さんが言おうとしていることは、実はすごく素朴なことで、誰もが実感していることを言葉にしたに過ぎないのかもしれない。
でも、素朴だからこそ伝わるものがあると思うし、実際、僕の頭の中もおかげで整理されてきています。

それから、自分が思い付かなかったことも書かれていて、なるほどと思いました。
それは「自傷行為」についてです。

 自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだと。だから、確実に死ぬ方法を選択しない。いや、むしろ逆じゃないのか? いまの自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないのか。
 もし、「この自分」ではなく、「別の自分」になろうとしているのであれば、自分は複数なければならない。自傷行為は言わば、アイデンティティの整理なのではないか? (59頁)

僕は、自分の知り合いの中に自傷行為を経験した人というのを知らないので、基本的には「他人事」でした。
自分と環境との齟齬から来る「環境からの撤退」、その「行為遂行性自体の顕在化」、ぐらいしか、自傷行為のことを考えることが出来ませんでした。
でも、ああそうか、「アイデンティティの整理」か。これは思いつきませんでしたね。

先ほども書いたように、まだ読んでいる途中なので、また何か思いつくことがあれば(批判的なことも含めて)ここに書こうと思います。