平野啓一郎『私とは何か』ふたたび

このブログでも既出の平野啓一郎『私とは何か』(講談社現代新書)。
前回はわりと好意的なところを取り上げたと思いますが、読み進めていくうちにやはり、つまづくところもあったので、それについて書こうと思います。

平野さんの言う「分人主義」とは、「個人主義」と対比的に捉えられるものです。
一人の人間を「分けることのできない個人」として捉えるのではなく、「様々な対人関係を通じて構成される〈分人〉の集合体」として捉えるのが「分人主義」です。
考え方としては素朴なのですが、それを「分人主義」と名付けて考えようとしているところが面白いなあと思ったのです。

僕はこれを読みながら、実は最初っから思っていたことがあって、それは……

「自分の分人がそれぞれ別々の人を好きになることは『分人主義』によって肯定されるのか?」

ということでした。
つまり、いわゆる「浮気」「不倫」と言われるものを肯定する理論になるのか、ということです。

やはりこの点については、平野さんも言及しています。

私は、人間は分人の集合体であり、重要なのは、その構成比率だと繰り返し書いてきた。その際に、恋をしている分人、誰かと愛し合っている分人を複数抱えている、ということは容易にあり得る。不倫や浮気が決して無くならないのは、その何よりの証拠だ。(略)単位としての価値中立的な「分人」ではなく、思想としての「分人主義」を考える上で、判断が大きく分かれるのは、まさにこの問題だろう。つまり、複数の恋愛する分人を抱えた人間同士が、愛し合うということを認められるかどうか? パートナーがいることを許容できるかどうか?(140〜141頁)

平野さん自身は自作『ドーン』でこの問題を取り上げたらしいのですが、本人としては詰めきれなかったようですね。
でもその詰めきれなさはこの本でも同じだったと思います。

(略)他の人に恋をするのは、必ずしも、今のパートナーを愛していないからではない、ということである。個人と個人との恋愛では、誰か他の人を好きになるというのは、即ち自分をもう愛していないという意味だった。しかし、どの分人も「本当の自分」なのだとすれば、同時進行は可能だ、ということになる。
これに関しては、絶対に理解できないという人と、理解できるという人とが分かれるだろう。頭では理解できても、体の関係はやはり生理的に容認できないという人もいるに違いない。分人主義には肯定的でも、結婚して子供が出来、その子との分人を生きるのが楽しくて、恋をする分人まで生きたいと思わなくなった、という人もいるはずである。(142頁)

うん、書いてあることは何と言うか、その通りですよね、というか、まあ無難なことが書いてありますよ。
でも結局そこで言われていることは、「分人主義で行けるときと行けないときがあるよね〜」ってことじゃないですか。
……そんな不徹底な!
何て言うかな……、平野さん自身が、読者と家族とに応じて分人化しちゃってますよね、皮肉にも。
ま、それでいいのかもしれないけど。
でも僕としてはちょっとここでつまづいた。

ある意味期待していただけに、ちょっとがっかり。

他にもつまづくところはあるけど、ブログで書くかどうかは後で考えます。