今野真二『百年前の日本語』(岩波新書)

僕はたいてい、複数の本を同時に読み進めていくのですが、いくつか並行して読んでいる本の中で、ちょっと面白そうだなあと思ったのが、

  今野真二『百年前の日本語 書きことばが揺れた時代』
  (岩波新書、2012年)

です。

僕は一応、近現代日本文学の研究者ということになっているのですが、明治時代のことは正直言って、弱い。
(弱い、といっても、一部の人と比べたら、強いかもしれない。でも、どうでもいい)
だからちょっと明治期の日本語表現のことを補っておこうと思って読み始めたのが、この本です。
新書ということもあって、いわゆる研究書じゃない。
軽い気持ちで読めるから、門外漢(日本語学の研究者ではないという意味)の僕でも大丈夫。

まだ本当に読み始めなのですが、面白い指摘だなと思ったのが、以下の部分。

小学校や中学校において、教室で配布される教材は、かつては手書きの原版を謄写版で印刷したものだった。それは「手書きを印刷したもの」、つまり「印刷(という手段)によって手書きを再現したもの」であったといえよう。しかし、現代に生きるわたしたちが眼にする「書かれたことば」は「手書き」されていないことが多い。教科書に印刷された活字をもとにして漢字字体を学習、修得し、それを「手書き」している小学生は「印刷されているように手書きする」ことを習っているともいえよう。「手書きのように印刷する」と「印刷されているように手書きする」とはいわば正反対である。(2頁)

僕は、テクノロジーによって構成される身体性とか、フィクションとしての自然とか、そういうことに関心があるので、この上に掲げた「手書き」をめぐる私たちの状況についての指摘が面白いなあと思う。
本当に、「手書き」って、どういうことなんだろう、この現代において。

よく事務的な書類とかで「自署」が求められたりすることがあるけど、「手書き」にはその書記者のアイデンティティが見いだされているわけですよね。
このときの「手書き」「書きことば」は、「話しことば」と対比されるレベルとは異なるレベルで、発信者と結び付いている。
「手書き」であること、「自署」であることが、この現代においても信頼されているってのは、ホント、奇跡なんじゃないの?
その信頼されている「手書き」が、印刷技術が再現するフォントを模倣して成り立っている、ってね。

……とにかく、まだ読み始めです。
上で引用した部分だって、2頁のところですからね。
今後ブログでこの本を紹介するかどうかは分かりませんが、僕の弱点である「明治時代」を補うためにも、読み続けてみようと思っています。