たまこのコンタクトレンズ

先日、アニメの『たまこまーけっと』の第2話を観て、思ったこと。

朝、目が覚めて、眼鏡をかけた、たまこ。

……学校行ったりお餅作ったりしてるときには眼鏡をかけていなかったので、ちょっとビックリして。
「あ〜、この子、普段コンタクトレンズをはめていたのか」と思った。
ただ、それだけ。

でも、ただそれだけなんだけど、ハッとさせられました。


世の中にはいろんな価値観があって、「普段はコンタクトをしてるけど、寝起きは眼鏡をかけてる、そんな彼女に萌えるぜ」ってのもあるんだろうな、とは思う。

でも、僕の感動は、それとは少しだけニュアンスが違います。


たまこがコンタクトを使っているかどうかなんて、多分、今後の物語の進行上、それほど重要なことにはならないと、現時点で僕は、勝手に思っています。
言ってしまえば、「どーでもいいこと」だと思います。
でも、そういう「どーでもいいこと」が蓄積した地平に、フィクションの日常が作り出されるのか、と改めて気付いたのです。
……薄々は気付いていました。
でも、改めて気付いたのです。

しかも、(これは「萌え」に繋がる話かもしれないけど、)「どーでもいいこと」が唐突に露呈するってことが、なんて生々しいことか。
なんてエロティックなことか。
(この場合の「エロティック」は性的って意味よりは、「生の本能」的な意味に近づけて使っているけど)

やっぱキャラクターって、属性並べてハイ完成!じゃないわ。
物語内での同一性を担保させつつの変化、がキャラクターの存在感を支えるんだ。
変化を把捉可能にする媒体としての物語、やっぱり必要ですぜ。


でも、こういう分析してると、ヤバイな。
日常生活を送っていて、友達とか学生とかを相手に「えっ、君、眼鏡してるんだね。じゃあ、普段コンタクトだったんだ!」なんていう会話をしちゃった日には、
「え〜、この人、いま私のことをエロティックな目で見てるんだ……」
とかって思われるわけでしょ?

ん〜、どうしよう。