ひさびさの更新

このところ、ブログ更新を全く行ってませんでした。

本務校及び非常勤先2校の前期試験(レポート)の採点やら何やらで、頭の中が一杯になってしまっていて、「ブログ」のことをすっかり忘れていたわけです。

とは言え、僕がブログを忘れている間でも、世間ではネットメディアで盛り上がっていましたよね。……そう、高岡蒼甫さんの発言を発端とする、フジテレビと「韓流」の問題です。

僕自身、ポップカルチャーを研究対象としている以上、黙殺はできない問題ではあります。
ただ、「韓流」以前に、僕の中ではテレビ局の「偏り」ってずっと以前から(子どもの頃から)感じていたことでした。
だってそうでしょう。日テレに限らず、どこの局のスポーツニュースもジャイアンツ中心じゃないですか! 自民か民主かといった例の政権交代のときでも偏向って感じられたし。今で言うなら、原発事故をめぐる報道だってそう。
あらゆる情報の送受信が、偏見やら欲望やらによって構成されているわけで、そういうことを踏まえた上で、テレビってのを見なきゃならない。テレビは社会を映す鏡ってのは完全に嘘っぱちで(その意味でふかわ発言はフツーに正論)、マスコミ側の欲望に対して、私たち視聴者がどんな欲望をぶつけて葛藤を引き起こしていくかが、「社会」ってのを作っていくわけですよね。

「韓流ブーム」へのカウンターとして日本文化を掲げるってのは、気持ちは分かるけど、日本の純粋性みたいなものを称揚するのがちょっと閉塞的な感じがしてしまう。そもそも「日本文化」を代表するのは何? EXILE? AKB? それはやめてほしいな。
でも、茂木発言じゃないんだけど、グローバリゼーションの時代だから「韓流」受け容れなきゃならないってのも、違う。国境というものを超えなきゃならないって発想自体が、国境に固執しているものだと言えるし、「〜しなきゃ」っていうオブセッションが創造的なものを生み出すってことが、僕としてはイメージしにくい。グローバルなものがローカルなものを立ち上げるのは常識的なことなのだから、反「韓流」が生まれること自体が、グローバルな論理の産物だと言えるでしょう。

国境は大切だと思うし、それを超えようとする際にものすごく摩擦が生まれることも大切だと思います。他者を排斥するのは絶対良くないけれど、他者を全面的に受け容れるという姿勢自体が「他者の抹殺」を意味するから、絶対望ましくない。
しんどいかもしれないけれど、やっぱり摩擦・葛藤を粘り強くやるしかない、と思います。その意味で、高岡発言とそれに刺激された人々の想像力と、「韓流」をどうしても推したいと考えているフジテレビの想像力との間に、激しいぶつかり合いが生じることは健全だと思っています。どんどんフジテレビを突き上げればいいし、フジもどんどん「韓流」を推せばいい。変な感じで着地点なんか見つけてほしくないです。

馴れ合いなんて、望ましい「社会」じゃない。わかり合えないってことが重要だと思います。

にしても、東海テレビの「セシウムさん」事件は、さすがに怒れた。「ぴーかん」のあとにワンピースの再放送するってのも怒れる。逆に視聴率上がるんじゃね? 懲りてないでしょ?