エウレカセブンAO

今の自分の関心について、少し整理。

学部時代は堀辰雄研究をしていて、卒論には『美しい村』を扱いました。
この小説は、メタフィクション的なところがあるんですが、この小説の構造の問題を、「堀にとって馴染みのある軽井沢を舞台にしている」という問題と重ね合わせて考えようとしました。
現実の空間を多重に虚構化しようとする堀の実践の中に、抒情性を読み取ろうとしたのです。
その試みが成功したのかどうかは、よくわかりません。
何せ僕も研究者として、経験不足でしたし。

しかし、大学院に入り、ゼミ等で「他者」について考えるようになり、堀辰雄の世界があまりに閉鎖的だなあと感じ始めました。
折しも、『新世紀エヴァンゲリオン』劇場版の「まごころを君に」を見て心を揺さぶられていたこともあって、「アメリカ」という他者とぶつかった戦後日本の小説(具体的には小島信夫の『抱擁家族』や『アメリカン・スクール』、あるいは村上龍の小説)について考えることにしました。
博士論文は、そうした小説を扱いました。

ただ、言うまでもなく「他者」というものは、文化的・歴史的に規定されるものではなく、コミュニケーションの現場において出会うものです。
アメリカという「他者」と出会う場面の一つに「英会話」がありますが、英語の文章を読むのとは違う音声的なコミュニケーションがそこにはあり、ある音声を〈意味〉として見出しながらその音声の発信主体をまざまざとイメージしていくプロセスがそこに構造化されていくことを考えるにつれ、音声中心主義的な思考の問題や音楽聴取の問題を考える必要があるぞ、と思うようになり、博論提出後は、音楽文化について研究し始めました。

そうした中で、サンプリングの問題や初音ミクについて考えるようになり、いま改めて、学部時代以来の現実と虚構の問題と向き合うようになりました。

現実に起こった出来事を、ノンフィクションやドキュメンタリーとしてではなく、あえてフィクションを通じて考えることに、どんな想像力が潜んでいるのだろう?
(ノンフィクションやドキュメンタリーが虚構性を排除しているわけではないことは、言うまでもないことですが)

この問題は村上龍の『インザ・ミソスープ』(酒鬼薔薇事件との同時性)を考察していたときから、何となく意識していましたが、音楽文化研究をやることで、改めて、僕の中で再燃してきました。

アニメ『輪るピングドラム』もそう。フィクションを通じて地下鉄サリン事件を考えるって、どういうことなんだろう?

そして、今見ている『エウレカセブンAO』もそう。この物語を通じて沖縄の“独立”を考えるって、どういうことなんだろう?

もともとアニメが好きだった自分にとって、とても考えてみたい問題が出てきたのです。

もちろん、現実と虚構の問題なんて昔からあるわけで、多くの先人たちがすでに論じてきているでしょうが、僕としては個々の事例について、それぞれのコンテクストに即して、考えたいのです。
僕がアニメを研究するとしたら、意義はそこにあると思っています。

ところで、『エウレカセブンAO』については、僕は前作『交響詩篇エウレカセブン』のときから大好きで(キャラクターとしてはアネモネが好きなのだが)、今作も期待しています。
最初はあまり入り込めなかったのですが(レントンに比べてアオには共感しにくい)、だんだん物語に惹かれてきています。

そういえば、劇場版をDVDで見たのですが、それを見たのは、僕の妻が最初の子を出産する直前でした。
タルホの妊娠とホランドの決意が、すごく僕の胸を打ったのを、今でも覚えています。