平野啓一郎『決壊』(新潮文庫)

結構前の小説なのですが、後期の授業で取り上げたいと思い、初めて読みました。
平野啓一郎『決壊』2008年、です。
上下巻の長い小説なのですが、割と一気に読めました。といっても、通勤電車の中で読んで3日かかりました。

ある一人の男がネット上で書いていた日記を、その妻が読み、その兄が読み、そして別の人物が読み……。
そうした中で形成されていった不信感や疑念、そして喚起されていった憎悪などがからみ合い、凄惨な事件(そしてその事件後の凄惨な出来事)が展開していく。

この小説の著者の平野さんは『日蝕』でデビューした当時、京都大学在学中の芥川賞受賞者ということで、すごく注目されていたのですが、彼の小説に全然手をつけておりませんでした。
おそらく、当時(大学院在学中)の僕は、嫉妬していたのだと思います。……あんまり覚えていないけど。

それで、この『決壊』が初めて読んだ平野さんの小説なのですが、主人公(?)の崇の内面描写・自問自答の語りは、僕の好みに合っていました。
面白かったです。なぜもっと早く読まなかったのかな?

この『決壊』は、『ドーン』『かたちだけの愛』とともに「分人主義三部作」と呼ばれているそうですね。

相手に応じて、場面に応じて、人はさまざまな〈人格〉を選択します(あるいは選択させられます)。
それらの複数の〈人格〉は、どれが本物でどれがニセモノで……ということとは別次元にあるもので、そのような〈人格〉の多層化は今日、インターネット等の環境によって(「アーキテクチャによって」という言い方のほうが今風なのだろうか)より行われやすくなっているのでしょうね。

こうした〈人格〉の問題(平野さんの立場で言えば「分人主義」)は、僕もフムフムと頷けるところではあります。
それこそ、ネットをやる前から、僕は分人主義者だったと思いますよ!
他人との言葉の交わし合いを通じて、相手が自分に対して求めている「自分」を言葉で構築して、虚構として提示しているという意識は、たぶん小学生ぐらいの頃からありましたし。
その虚構としての「自分」たちが、ときに整合しないことも実感してましたし、整合しないことをどう取り繕うかということに悩んでもいましたし。

でも、「だけど……」とも思うのです。
そんな分人主義者って、僕だけじゃないし、誰もがそう、だと思うのです。その意味で、新しくはない。
もちろん「分人主義」という言葉を発明し、それを、現実を見る上での定規にすることの意義は、絶対的に認めます。だけど……。

むしろ僕が今思うのは、

「俺のパーソナリティ、分裂しちまってるわ〜。ていうか、そんな分裂に気づいている俺って何様? でも、リアルな俺(=リアルな俺だと思っている俺)はリア充できてないけど、別パーソナリティの(俺からすれば)『リアルじゃない俺』が幸せなら、リアルな俺も幸せ\(^O^)/ 」

みたいな想像力が拠り所を得られるような状況を、僕自身の言葉を通じて整備したいな、ということですね。

そのためにも、つまり、『決壊』が提起してきた問題を、読者としての僕が継ぐためにも、『決壊』以降の平野さんの小説も読まないといけないですよね。はい。

平野さん、もう答えだしてるかもしれないし。


新潮文庫版の解説にもあるように、この小説が発表された時期に、あの秋葉原連続殺傷事件が起きました。
あの事件もネット上での発言のあり方ってのが、問題になっていましたよね。

ネット上において多くの人によって確認される「情報としての『私』」って、一体なんでしょうね?

このブログを通じて確認される「情報としての『広瀬正浩』」って、一体なんでしょうね?


決壊(上) (新潮文庫)

決壊(上) (新潮文庫)