授業で『ソードアート・オンライン』を扱う

今日の4限に「テクノロジーと文学」という授業がありましたが、そこで小説/アニメ『ソードアート・オンライン』を取り上げました。
アバターの身体感覚というものについて考えてもらうキッカケとして、です。
といっても具体的にとりあげたのは、第1話と第8話です。

SAOのシステムは、アバターと生身の肉体との隔絶と連続性の両方を、プレイヤーに担保させていますよね。

初期の段階で、システム創設者である茅場が、アバターの生命と生身の肉体の生命とが同一であることを訴えます。
これはプレイヤーにとっては(実際に死なない限り、いや死んでしまっても)確認できないことだけど、でも「そういうルール」としてプレイヤーは受け入れていく。
アバターと生身の肉体とが連続しているという認識を要求されるわけですよね。
そしてそのような認識を後押しするかのように、アバターの顔は、生身の肉体の容貌を形象することが強制されます。

しかし、プレイヤー自身の実感のレベルでは、アバターと生身の肉体との隔絶を意識させられることになります。
敵との戦闘においては、生身の肉体が帰属している現実の世界でのような身体の所作ではなく、モーションを起こしてソードスキルを高めてシステムが的中させてくれるようにする所作が求められます(第1話)。
また、第8話でアスナが披露してくれた調理の場面のように、料理スキル(数値)が高ければ美味しい料理ができるので、華麗な包丁さばきとか、微妙な指使いとか、全然そんなものが必要でなかったりするわけです。


ですから、プレイヤーは、「連続している」という認識と「隔絶している」という実感との間で、引き裂かれているのです。
もちろん、この引き裂かれた状況を何とかしたいという想像力が形成されることになるわけですね。

たとえばその想像力は、キリト&アスナのように、現実世界(生身の肉体のオーナーであることを強く自覚していられる世界)への回帰の欲望として構成されます。

しかしその一方で、電撃文庫2巻所収「心の温度」に登場する鍛冶職人の女の子が感じた次のような実感……

もちろん、キリトの体だってデータの構造物だ。今あたしを包んでいる温かさも、電子信号があたしの脳に音感を錯覚させているに過ぎない。/けれど、ようやく気付いた。そんなことは問題じゃない。心を感じること――現実世界でも、この仮想世界でも、それだけが唯一の真実なんだ。

……そんな実感、つまり隔絶を超えた普遍的な感覚を獲得しようとする動機を誘発するものとして構成されたりもします。


私たちは、オンラインでのやりとりを通じて、生身の肉体とは異なる、オンライン上で構成されるもう一つの自分(の身体)にリアリティを感じること、「本質」を感じることがあります。
そういった実感を多面的に捉えてもらうことを目的として、『ソードアート・オンライン』を取り上げてみました。

受講した学生は、こうした思考を、楽しんでくれたかな?