体罰の問題についての私論

アイロニカルな言い方をしますが……、体罰について。

暴力行為の動機(教育行為に必要か否か)を問わず、加虐者はその加虐行為によって興奮してくるから、その興奮(→気持ちよさ)が自らの加虐行為の反復を加速させていくっていうか。
「殴られる方も痛いかもしれないけど、お前を殴る俺も同じくらい痛みを感じてるんだ」ってのは詭弁だと思うんだけど。
そんなの、自分が感じている快楽を正当化する論理にしかならないと思います。
人間、気持ちがいいことをしたいだけなんすよ。
興奮を持続させたくて、殴り続けているんですよ。

体罰が教育行為に必要かどうかってのは、コンテクストに依存するのかもしれない。
「絶対的に不必要なんだ」と絶対化できないものだ、という理解ぐらいは、文学研究者ならすべきかもしれない。
……でもそういう立場は危ういものだということも承知しておかなくてはならない。
殺人や戦争も、肯定出来ることになるしね。
アヒルと鴨のコインロッカー』や『重力ピエロ』観てると(読むと)考えさせられますよ。

いじめ問題にせよ、体罰問題にせよ、「だから不適格教員を閉め出さなければならない」「だから教育委員会は問題なんだ」という主張になって、教育現場を管理しようとする動きがあるとしたら、注意しなければならない。
そういうこと(管理)を考えていそうな首相や市長が思い浮かんじゃうんだけど。
それは、いじめ・体罰問題の当事者(加害者・被害者の両方とも)を“利用”することにもなる。
……何も手を打たなくてもいいという訳ではない。
でも、悲劇を利用しようとする者もいるんじゃないかって思う。

3.11が起こったとき、みんな“元気”になった。
評論家とか研究者とか。
国とか政治家とか電力会社とかを批判する人たちの眼がいかに輝いていたか、いかに肌つやが良かったか。
そのことの“危うさ”は思い出しておきたいんです、僕的には。

3.11のとき、僕は、自分が「日本文学研究者」「日本文化研究者」とかっていうよりも、「電気文化研究者」だったんだ、って実感させられました。
テクノ音楽文化とか、デジタルメディア文化とか、そういうのを研究していたわけだしね。
でも、研究を止めるわけにはいかないし、止めたとしてもそれは偽善でしかない。
だから、アイロニカルな態度でやり続けるしかないと思った。
身をもって、自分がやっていることを引っ繰り返すようなメタ視点持ちながら、やっていく、みたいな。