『琴浦さん』=Twitter論

Twitterを始めて1か月は経ったかと思うけど、正直言って、未だよくわからないです。何か、難しい。

本やCDの出版情報や、イベントの開催情報が入って来るのはありがたいし、一つの出来事についての様々な意見を読むこともできて、そのへんは面白い。
だけど僕の受け取る呟きの大半は、素朴な感動の言葉だったり、愚痴だったり。
でも、それはそれで、面白いんですよ。
この人は今こんなことで盛り上がっているなあというのは、知れると面白い。

問題は、自分には感動を言葉にするということが上手にできないんだ、ということなんです。
このことの発見は、自分としても驚きでした。
Twitterやってみないとわからなかったことだから。
最初は、みんなの呟き方を真似してみたりもしたんですが、だけどそれって変でしょ?
でも、ヘビーユーザーたちも、そういう悩みを乗り越えてツイートしてるんです、よね?
僕、そこまでの努力できるかなぁ。

あとね、感動や愚痴を呟くにせよ、読者を意識してしまう。
そうすると、どういうオチをつけようか、とか構成を考えてしまう。
そうすると、初期の感動がどっか行ってしまう。
そうすると、別にツイートしなくていいや、と思っちゃう。
みんなはどうやって乗り越えたんだろう。

で、読者を意識しているうちに、アイロニカルなレトリックを用いてしまう。
そうすると、「Twitterって思ったことを簡単に発信できるソーシャルメディアだ」と考えている人との間に齟齬が生じる。
……実際に僕の言い回しを誤解してるのでは、という人もいなくはない。
(誤解させてしまっていたら、ごめんなさい)

本当に「思ったことを簡単に発信」してしまったら、大変なことになってしまう。
僕の中に確実に内在している殺意と性欲と退化願望と睡眠欲と支配欲と神秘志向は、絶対に具体的に現象化させないようにしてるんだから!
(睡眠欲は別にいいか…)


さて、タイトルにある『琴浦さん』ですが、言うまでもなく今やってるアニメです。
琴浦さんは他人の心の中(頭の中)を読めてしまう能力を持ってて、簡単に読めてしまうから他人とのコミュニケーションの取り方が分からず悩んでいた女の子なんですが、その子のことを好きな真鍋君は、琴浦さんに頭の中を覗かれていることを承知して、琴浦さんに対する性欲を脳内図像化するわけです(作中ではそれは「エロス」と呼ばれている)。
そして、琴浦さんが恥ずかしがったり悶えたりするのを、真鍋君は楽しむんですが……。
《感情の吐露の全面化》と《その全面化を前提とした感情の構成》の問題を扱っているという意味では、『琴浦さん』は優れたTwitter論になっていると思います。
シリアスな内容ながら、あの腑抜けたような(失礼!)キャラデザになってるところが、いいなぁと思います。
あ、基本的にはコメディですけどね。ラブコメ


ところで、ブログを書くことは問題ないのか、ということですが、今のところはないですね。
「思ったことを簡単に発信できるソーシャルメディア」という前提が、ポストTwitter時代のブログに対しては共有されてない、と僕には思えるからです。
それに長文が書けるからね。
読者を意識した問題提起やアイロニカルなレトリックの実践の場として使える、という自覚が、今のところ持てています。