人格的に悲しいタイプの人の音楽をどう捉えるか(捉えたか)という問題

今日Twitterで、友人と結構重要なやりとりをしたのですが、自分なりに考えたこともあり、ここで整理してみたいと思います。
Twitter上で整理してもいいのですが、TLを結構埋めてしまいそうなので、自粛ね。

まず、Cというイニシャルの音楽ユニットの中心人物が、過去に「いじめ」をしていたことを嬉々として語っていて、それが古い雑誌に掲載されていて、そういう情報を入手してゲンナリしまうと、Cの音楽に対する評価もぶれてしまうんだ、ということを友人が話題にしたのですね。
僕たちは普段、《作家と作品を区別して考える》という習慣を身につけていて(いわゆる《作家論》の相対化なんだけど)、作品に対する評価を行う際に作家の人格の反映としてその作品を見ないようにしているのですが、上に書いたようなゲンナリするようなことがあると、僕たちが規範としているものも揺さぶられることになり、ひいてはそのような規範を完全に内面化し得ていない自分自身を反省的に捉えてしまいかねない……
みたいなことを話題にして、僕と友人は、うんうん、とやり合ったわけです。

で、それについて僕が考えたことを、2点書いてみます。

まず第1点。作家と作品は、区別できないということ。

作品を「作家の人格の反映」として読む必要は全くないと思います。
でも、その「作家の人格」というのは、雑誌やネットなどに載っているその作家の発言から浮き彫りになったりするんですよね。
そうした雑誌やネットの情報というものも、その作家をめぐる「商品」なわけです。
その商品に対して作家がどれだけ主体的に操作できているかは、人それぞれだと思います。
しかし、それこそTwitterやブログでの発言同様、そこで構成された情報はリスナーによって入手されうるものなのだし、その情報がリスナーにとって何らかの価値を有するものであるならば、「商品」と呼んで支障ないでしょう。
とするならば、その作家が関わった作品と、作家をめぐる情報のいずれもが、「商品」であるわけです。
ビジュアルを重視しているミュージシャンだったら、画像も「商品」だしね。
リスナーは様々な水準の情報を複合的に捉えて「商品」として受け取っているわけですから、「商品」を受け取っている僕たちの立場としては、《作家と作品は、区別できない》。
なので、僕と友人の「ゲンナリ」は、当然なのです。

そして第2点。そのCの音楽は、そもそも評価しがたいものである。

Cというユニットの音楽は、すごく先鋭的なのです。
(ここらで「あー、あのCかぁ」って分かった人もいるかもしれない)
なかなか他の追随を許さないようなアイデアの音楽で、まさに「新しい音楽」の作り手。
そのCの中心人物はかつてFに居たんだけど(もうバレたね)、僕はFが好きでした。
メロディがいいと思います。あとファッショナブルで格好良かった。
だけど、FもCも、「戦略」が前面に出すぎている。
特にCは「戦略」しかない。
そして見事なまでに野暮ったさが皆無なので、本当に「戦略」だけが冴えてしまう。
そうすると聴いてて感動!という次元から乖離して、ただただ「あざとさ」が目立つ。
そういう「あざとい戦略」を、わざわざ評価してあげる必要はない……と僕は思う。
友人のためを思っても、そんな必要はないと言いたい。

たとえば友人は、□□□(クチロロ)が好きだったりする。
□□□はとても「戦略」的だったりする。
だけど、幸か不幸か、□□□は野暮ったい。「こういうのが好きなんですぅ」というのが隠しきれていない。
だから愛しく思えるのではないか。
一方僕は、電気グルーヴが好きだったりする。
彼らもまた「戦略」的だったりする。
だけど、説明不要かと思うけど、どう見ても野暮ったい。ピエール瀧なんて、天才的ではないか。
だから愛おしく思えるのではないか。

僕も文学研究/文化研究を行う上で、「戦略」ってすごく大切だと思っている。
基本的に、他の人が論じていないようなテーマを論じたいと思っているけど、これってとても「戦略」的だと思う。
でも、僕はその研究対象に対して野暮なくらいにハマる。ハマらないと失礼だとも思う。
初音ミクも大好きだし、あずにゃん(『けいおん!』)も大好き。
(シンポジウムでステージ上で、何度も「あずにゃん!」って口に出したさ。まるで庄司智春の「ミキティー!」みたいなものさ)
ほっちゃんも花澤さんも藤原さんもあやちも大好き。
とにかく「声」というものによって自分がどうにかなってしまうのが、好き。
その野暮なまでに好きな気持ちを持っていることが、「戦略」を扱う上での僕の《倫理》となっている。
……もちろん、その《倫理》を他の研究者に押しつけるつもりはないけど。
だけど、「戦略」しかないような研究をしている人の研究って、論文読んでてもムカムカするんだけどなあ。

僕が考えたことは以上です。