かつて堀辰雄を研究しておりました

大学のゼミとかで、卒論指導などをするときには、

「せっかく卒論を書くんだったら、自分の好きなものを研究対象にした方がいいよ。じゃないと、締め切りに追われたりしながら焦って論文書いたりするときに、好きでもないものを相手にするのは、とてもしんどいことだから。好きものが相手なら、大変なことでも頑張れるから」

みたいなことを言っています。

もちろん、異論をお持ちの指導者もいるでしょう。「論文というのは客観性が求められるのであって、少しでも対象とは心理的な距離を置く必要があるんだ」とか。
……それはそれでごもっともなのですが、スタートが「好き」であってもいいじゃないですかぁ!
要は、単なる「好き」で終わらせず、「なぜ私はこれを好きだと思ってしまうんだろう」という自分を見つめ直す作業に至れば、客観性なんて簡単に獲得できるわい!

というわけで、僕もまた好きなアニメや音楽を(もちろん文学作品も)研究対象にしたりしているわけですが、昨日、仕事仲間と喋っていて、

「趣味で小説を読んだりすることってできるの?」

と訊かれて、はっ、としてしまいました。

「好きなことを研究対象にする」ということが高じて、「好きなもの全てを研究対象として見てしまう」というところに陥ってしまっていました。
あれ? 僕には研究以外の領域があるのかな? 研究対象にすることなく「ただ好き!」ってだけで物事を見ることはできるんだろうか?
……分からなくなってしまいました。
アニメを見てても「これって思想史的に言って××だよね」とか意識してしまい、何だか余裕がないような状況になってしまっているじゃないですか。

で、僕にそんな話を振ってくださった方々は、「私は趣味で堀辰雄を読む」とか仰る。
自分とほとんど同い年の教育者(おぢさん)たちが、趣味で堀辰雄、とか仰ってる。
……それはそれで、すごいことだよな、と思います。

実は僕自身、卒業論文のテーマは、堀辰雄でした。堀辰雄の『美しい村』という小説があるのですが、メタフィクショナルな構造をしているその構造自体が抒情性を生んでるよ、という内容の論文でした。

あのとき(卒論を書いていたとき)、僕は堀辰雄が好きではありませんでした。
風立ちぬ』とかに見られるような、主人公と彼女との自閉的な空気感や、主人公の未熟さ(ゆえの傷つきやすさ、傷つけやすさ)は、当時とても親近感を覚えましたが、小説としては「眠くなるなあ」と思っていました。

でも「眠くなる」というのは残念なことだ、と思ったのです。小説に負けてしまっているぞ、とも思いました。この小説を面白く読めたら僕の勝ちだ、と考えたのです。
そこで、面白く読むための僕の“冒険”が始まりました。その軌跡こそが、僕の卒論でした。
卒論を書き終えた頃、堀辰雄が好きになりましたが、研究対象としての興味は、他に移っていきました。

そういう意味では、「「せっかく卒論を書くんだったら、自分の好きなものを研究対象にした方がいいよ」という学生への指導は、僕が為し得なかった青春(?)を学生たちに代わりに過ごしてほしいという、ある種の押しつけがましさがあるのかもしれない。
……学生の皆さん、ある意味、ごめんね。

さて、『風立ちぬ』。スタジオジブリの最新作も、『風立ちぬ』ですよね。
僕の知っている堀辰雄の『風立ちぬ』は、主人公はゼロ戦を造りません。だから、別物なのでしょう。
でも、誤って堀辰雄の『風立ちぬ』が読まれるようになるのだとしたら、それはそれで面白いことでしょうね。
誤解によって堀辰雄風立ちぬ』を読んでしまった人が、変な触発を受けて、新たな『風立ちぬ』論を書いてしまったならば、僕は是非その論文を読んでみたいと思います。