小島信夫「アメリカン・スクール」のアクチュアリティ

先週と今週の「日本文学史(近代・現代)」という授業の中で、

小島信夫アメリカン・スクール」(1954年)

という小説を取り上げました。

ご存知の方も多いとは思いますが、「終戦後三年」の日本人英語教師のドタバタを描いた小説です。
この小説の中には、ホントに、いろんな日本人英語教師が出てきます。

アメリカ人に対抗する手段として英語を使用しようとして挫折する山田という教師。
英語を話すことを避けようとしているだけでなく、英語を話すことで「別のにんげんになってしまう」と感じるような、アイデンティティの動揺を抱える伊佐という教師。

いずれにせよ、戦後直後の英語ブーム(『日米会話手帳』のベストセラー化や、「カムカム英語」の人気など)に対する、「それって軽薄だよね」という揶揄として機能しているかと思います。

ところで、英語の能力って、現代でもますますその「ありがたみ」の度合いって、増してますよね。
就活する学生にとっても、TOEICのスコアが幾つなのかということに拘ったり(企業の側が拘るから、学生も拘りますよね)、小学校から英語を学ばせようという動きがもう既に起こっていたり。

ちなみに僕が所属している学部も「国際コミュニケーション学部」といって、英語教育を熱心に行ってもいます。

そんな「英語の能力が求められているのは当たり前」な中、学生に「アメリカン・スクール」なんか読ませて、学生から不満を抱かれないのか、とも思ったりしますが、授業中に書いてもらっているミニレポートの文章を読む限り、割と「アメリカン・スクール」の揶揄を真摯に受けとめているところがあります。

……君ら学生の英語学習に水を差しているというのに。

でも、そうした揶揄を通じて、改めて自分自身の英語学習の意義を組み立て直そうとしている学生の姿に、ホント真面目だなあ、と頭が下がります。

僕は日本文学研究者。
「英語じゃなくて日本語をしっかり学ぼう」とか「美しい日本語を……」といったことを積極的に言うつもりは、今のところありません。

でも、言葉が自分を形成している(虚構が自分を形成している)、だからこそ伊佐のような動揺を自分自身のことのようにイメージする……そういう作業の必要性は、僕も訴えていきたいなあとは思っています。