エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』読了!

以前このブログ上でも『薬草まじない』が面白い!ということを報告していたと思います。
(そのときの内容は、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20160304/1457039068 )
それがようやく読み終わりました。

子がなかなか身ごもらない妻のために、主人公が家族の反対をおして、〈さい果ての町〉に住む〈女薬草まじない師〉のもとへ薬草のスープを貰いに冒険に出るという話です。
なぜ家族が反対するかというと、主人公の住む町から〈さい果ての町〉に行くまでに様々な難所があり、とても生きて行って戻ってこられるとは思われなかったからです。
しかし主人公が危険を冒してまで旅に出ようとしたのは、主人公の属する共同体においては、子どもがいてこそ夫婦は幸福になれるのであり、子どもがいない夫婦は共同体の中で蔑視されるためでした。

……このあたりの主人公の置かれた状況というのを考えると、少し胸が痛くなりますね。

今日の日本においても不妊に悩み、そして(終わりが分からない)不妊治療に苦しむ夫婦という存在は珍しいものではないわけですが、価値観が多様化している現在とはいえ、「子どもがいてこそ夫婦は幸福になれるのであり……」という考え方は決して絶滅しているわけではありません。
僕たち夫妻も子どもができるまで、この価値観・考え方と少し格闘するところがありました。
この『薬草まじない』の舞台はアフリカですが、アフリカ社会について、訳者の土屋哲さんは「訳者あとがき」で次のように書いています。

アフリカの伝統的な共同体社会では、女は子を生むことによって、先祖から子孫へと連がるタテ糸をつなぐという重大な社会的使命を果たさなくてはならない。だからこそ、子を生めない女は、人間失格ということにもなり、世間からつまはじきにされる。この小説がきわめてアフリカ的、アフリカの伝統文化に深く根差している理由はこの点にある。(岩波文庫『薬草まじない』335〜336頁)
(あとがきの末尾に「一九八三年三月」という記載がある)

これを読むと「マジかよ!」って思ったりするのですが、そういう背景があるのなら、なおさら主人公は旅に出なくてはならなくなりますね。
だけど、あんまりそういう悲壮感が語られないのです。そういうウェットさは、この小説の語りにはないのです。それはそれで面白いですね。
(にしても、「女は子を生むことによって、先祖から子孫へと連がるタテ糸をつなぐという重大な社会的使命を果たさなくてはならない」みたいなこと、今の日本の政治家とか教育者が発言して炎上する……なんて流れ、ありそうです)

主人公は、その冒険のさなか、ジャングルで様々な〈化け物〉と出会います。〈化け物〉と言っても、ジャングルの民なのです。町の住人である主人公にとって、ジャングルに住む彼らは〈化け物〉に見えてしまうのですね。そのあたりの差別的な視線というか、植民地主義的なまなざしというのも、面白いと言えば面白い(このあたりは批評家・研究者的な興味ですが)。
主人公は彼らと遭遇し、驚愕したりするのですが、そんな主人公自身も長年の冒険のため、身なりが化け物じみているのです。主人公はそのことにも自覚的で、その自覚の有無がこの小説の批評性なのかな、と思います。

あと面白いなあと思ったのは、主人公が冒険の伴侶としていたのが、「第一の〈心〉」「第二の〈心〉」「〈記憶力〉」「〈第二の最高神〉」であったという点。
……一言で言えば主人公は自問自答したり葛藤したりしながら旅をしていたということなのですが、彼の中のいろいろな判断基準そのものが擬人化していて、その擬人化された基準と主人公とが対話をしているというのが本当に面白かった。

最後、冒険から戻り、その後もいろいろあって(ネタばれは一応避けておきます)、ようやくハッピーエンドかと思いきや、急に主人公の鼻孔から「第一の〈心〉」「第二の〈心〉」などが外に出てきて、裁判が始まるというところが、大変驚きました。
まるでテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』の第25話「終わる世界」と最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」が始まったかのような驚き。

他の作家の作品と比較して面白いとかつまらないとか言うのは意味がないけど、今まで読んだ小説とは違う面白さがあって、良かったです。

海外の小説を読むのは、いいですね。
日本の小説を読むのももちろん好きなのですが、読んでいると「あ、これは授業のネタになる」とか「これは論文で書きたくなる」とかそういうことが頭をよぎってきて、……そういうのも全然楽しいのですが、そういう読書じゃない読書もしたいなあと思えてくるのです。

本当は、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』を先に読もうと思っていたのですが、入手できなかったので、『薬草まじない』を先に読むことにしたのでした。
『やし酒飲み』も、もちろんトライしたい。
でも、とりあえず日本人作家のものを次に読むことにしよう。
積ん読してある本たちが「まだかまだか」と言ってますし。

昨日は卒業式

昨日(3月15日)は、僕の本務校・椙山女学園大学の卒業式でした。
その前日は天気が悪かったので、どうなることかと思っていましたが、卒業式当日は見事に晴れましたね。
卒業生は晴れ着を着たりするから、天気が悪いと最悪ですからね、良かったです。
でも風が強かったなあ。

毎年、全体でセレモニーがあった後、各学科ごとの部屋に分かれて、卒業証書の授与があります。
そしてその後、各教員から最後にはなむけの言葉を言うことになっているのですが、これが難しい。
何せ僕は会社勤めの経験がないので、これから社会人になる卒業生に対して、リアリティのあることを言えない。
(もちろん卒業生の全てが会社勤めをするわけでは決してないです)
月並みなことを言っても、素通りされるだけ。

というわけで、僕は海援隊の「贈る言葉」を歌いました!
この曲そのものは、卒業式とかにありがちなベタな曲だとは思うのですが、(参加したことがある人なら分かるけど)ああいう場で歌うというのは、なかなかないもの。
卒業生の記憶に残れば、と思って。

もちろん、ただ目立ちたいからやったというわけではなく、僕なりにメッセージはありました。
「恥を恐れるな!」というメッセージ。
若いうちは失敗もたくさんあって、恥をかくこともたくさんあると思うけど、どうせ恥をかいてもSNSでちょっと騒がれる程度なんだから、恐るるに足らずだ!……ということを全身で伝えてやろうかと思って。

うまく伝わったかな?

「浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」観賞

昨日(2016年3月9日)世田谷文学館に行き、「浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」を見てきました。

世田谷文学館というのは、実は僕は初めて行きました。
新宿駅から京王線(各駅停車)に乗って芦花公園駅で降りて、歩いてすぐのところでした。
入口のガラスの自動ドアのところに、少年時代の遠藤ケンヂ(『20世紀少年』)がいて、お出迎えのアイデアとして素晴らしかったと思います。

入場券を買い、2階の展示フロアに行きました。
平日の昼間だし、そんなに人はいないだろうと思っていたのですが、思いのほか来館客が多かったです。
僕の印象では、僕より年齢が上のお姉さま方(僕の母親世代より少し下ぐらいの方々)が多く、女子大生風の人も多かったですね。
男性はそれほど多くなかったような気がしました。
やっぱり20年ぐらい前に大ブームだった『YAWARA!』とかもあるから、本当に幅広い世代に浦沢マンガは人気なんですね……。

もう、展示スペースに入ってすぐに気付いたことですが、圧倒的な量の直筆原稿の展示がすごかった。
「描いて描いて描きまくる」というこの展覧会の副題の通りで、物量がものすごい。
資料によると、「単行本一冊丸ごと分の原稿展示」がなされているようで、本当に圧倒された。
もちろん1本1本の描線に惹かれることは当然なのですが、スクリーントーンを貼ることを指定した青色の鉛筆の跡とか、白の修正液を使いながら黒と白だけの世界が作り出されていて、唸らされました。
僕は1枚1枚の原稿を、目を凝らしながら(館内は明るくないし、視力が良くないというのもあるけど)見ていたので、結構時間もかかったし、全部見終わったらクタクタでした。

僕はこれまでに、マンガとかイラストの原画が展示されている展覧会やイベントに参加したことはあったのですが、実はそれほど感銘を受けたことがありませんでした。
好きな作家かそうでないか、の差もあるのかもしれません。
ですが、おそらく今まで僕が見てきたものは、物量的に圧倒されることがなかったので、1枚1枚の絵にそれほど力を感じることがなかったのかもしれません。
その意味で、今回の浦沢直樹展の展示方法は、僕にとってはドンピシャだったというか、“展示方法のコツ”のようなものを見つけたような気がして、その意味でもいい経験でした。
「物量の大きさが、個々の質を向上させる」という展示方法のコツ。
普通だったら、量が多すぎると1つ1つが埋没してしまいそうなんだけど、そうじゃなくするというアクロバティックな方法。
……簡単には真似できそうにないですね。

浦沢さんはNHKで「漫勉」という番組をやっていて、マンガ家の創作の現場に焦点を充てて、マンガ家の声を拾うということをしていらっしゃいます。
今回の浦沢直樹展も、そういった創作の現場、ものが作り出されていく場というものを可視化していくものだったと思います。
(構想ノートやネームなどが展示されていたのは、まさにそうでしょう)
ただ単に完成品(商品)を見せるというだけじゃないということ。
そうした意図に触れて、……感じたことがありました。

実は僕は、浦沢作品について、過去に論じたことがあります。
2013年に出した単著『戦後日本の聴覚文化』(青弓社)の中に、『20世紀少年』論が掲載されています。
第7章「「対抗文化」の記憶――浦沢直樹二十世紀少年』における音楽の政治」です。
(詳しくは、http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-7340-6
(もともとは、中京大学の研究所が出していた論集に寄せていたものですが、それに加筆修正をしたものが単著のほうに載っています)
物語文化と音楽文化の交差みたいなところに関心があった上での論文執筆だったので、描画の質を問題にするというスタンスの論文ではありませんでした。
そういう僕なりの執筆意図があったから仕方がないと言えば仕方がないのですが、今回、浦沢直樹展を見て自分が感じたのは、僕はマンガ家の創作現場での格闘というものを、一切素通りした論文を書いたんだな……ということでした。

これはあくまでも個人的な感覚で言うのですが、浦沢さんの描くキャラクターの絵柄は、めちゃくちゃ格好いいとか可愛いとかはない、と思います。
泥臭いというか、無骨というかね。少なくとも、萌え絵ではないよね。
でも、だからこそ、表面的な特徴から来る感情の起伏が少なく、半ば透明だからこそ、読者は物語世界の中に入り込んでいきやすい。
そしていったん物語の中に入り込んでいくと、その物語を動かしていくキャラクターが俄然格好良くなる。
見た目の格好良さとは違う、行動する主体としての格好良さ。

それはそうと、僕は2015年度より「アニメ・マンガ文化論」という授業を本務校でやるようになったのですが、どちらかというと、マンガよりもアニメのほうに偏った授業をしてしまったかな、と思います。
でも今回のようにマンガの直筆原稿を見てしまうと、一つ一つの筆跡だったり、マンガの表現技法などに支えられて物語が構成されているという素朴な事実を改めて感じさせられ、もう少しマンガにも力を入れた授業をしていこうかな、と思いました。

世田谷文学館浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」
http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html

エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(岩波文庫)読んでる途中

まだ今読みかけの本なのですが、めちゃくちゃ面白いです、このエイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(土屋哲訳/岩波文庫)。
タイトルから来るフィーリングで手に取った本です。
僕にとっての初めてのアフリカ文学なのですが、ちょっとハマりそうです。

ロッキータウンという町に住む主人公の冒険譚なのですが、まずこの町の設定が驚きです。
ひょっとしたら僕がアフリカの国々の風習に詳しくなくて、そこから来るエキゾチシズムなのかもしれませんが、……ここは一体どういう町なのだろうと引き込まれていきます。
僕が一気に引きずり込まれたのは、次の引用部分の最後の一文。

さてこのロッキータウンに住む人間は、大人も子どもも、それぞれが自分の崇拝する神さまとか、偶像、神像をもっていた。したがって数えきれないほどたくさんのお社が、川の土手に建てられ、ときにこの土手は、〈神さまと偶像、神像の寺院〉と呼ばれることもあった。かりにもこの町の住民で、尊崇する神さまや偶像、神像をもっていない者がいれば、その者は子どもや大人たちから忌避されたばかりか、不信心者とみられ、だれからも相手にされなかった。(岩波文庫、8頁)

何かを尊崇するのが当たり前、そうでない者は相手にされない……というのは、何でもかんでも冷笑したりして醒めてしまっている僕の周辺の環境とは真逆で、それでいて呪術的なものがそれなりに信憑性の高い僕の周辺の環境と似ている(特にその呪術的なものへの信憑が個々人によってそれぞれあるという点も興味深い)。

この小説の主人公「わたし」は、前世において〈生まれながらにして死んでいる赤ん坊〉族の一員であったらしいのですが、それが理由に自分の妻に子どもが授からないと考えており、この状況を打破するために〈さい果ての町〉に住む全知全能の〈女薬草まじない師〉に会いに冒険の旅に出る、というのが物語の軸になっています。
「クエストもの」というジャンルがあるのかどうか知りませんが、RPGみたいですよね。
だけど、冒険の動機が「子宝に恵まれないから」というのが、少しシビアですね。
小説にはこんな記述があります。

(略)というのも、事実、子どもをひとりも授からない女や男は、決して友だちや近所の人たちから尊敬や敬意を払われないからだ。しかもそんな男や女は、一生涯悲しい人生を送らなければならないことになるのだ。いかに貧しくとも、子宝に恵まれさえすれば、幸福に暮らせるのだ。
 このことは、わたしの町ではきわめて重大な慣習なのだ。「母は黄金。父は子どもの姿見だ」という諺はわたしたちみんなの生活訓になっていた。(22頁)

子どもがいなきゃダメだという考え方は、主人公個人のものではなく、町全体、共同体全体に共有されている考え方なのですね。
一応この小説は「幻想小説」らしいのですが、アフリカの地域ではそのような考え方が根強いということなのでしょうか。
私たちのいる現代の社会では、上述のような考え方が表立ってまかり通っているということはないのかもしれませんが、それでも若い夫婦とかだと「そろそろ子どもが欲しい頃だわよねぇ」とか周囲から言われたり、「あそこの夫婦は子どもがいないんだ(子どもを作らないんだ)」ということが殊更に意識されたりということはあるので、私たちにとっても決して無縁な考え方ではないですよね……。
そういう考え方が、ある人にとってはプレッシャーになるのにね……。

で、この主人公、命懸けで〈女薬草まじない師〉を探しに行きます。
周囲の人間(妻や父母、義理の父母ら)は泣いて彼を止めるのですが、彼の決意は固いのです。

その冒険のさなか、彼はある強敵に出会います。その強敵の名前(?)を見て、僕は度肝を抜かれました!

ジャングルのアブノーマルな蹲踞の姿勢の男(42頁ほか)

何ですか!「アブノーマルな蹲踞」って。こんな言葉今まで聞いたことがない。イメージできない!
訳者の訳し方がいいのですかね。いや、オリジナルがいいのかな。
この敵の名前だけでなく、この小説にはこちらの想像力を刺激する様々なフレーズに満ちています。

ということで、まだ読みかけの本ではあるのですが、どんどん読み進めていきたい。



ところでちなみに、三浦綾子『氷点』上下巻に引き続き、『続氷点』上下巻も読みました。
(『氷点』については、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20160228/1456663275
個人的に辻口徹に思い入れをしながら読んでいたので、あんな結末になって悲しかったです。
そういう悲しい気持ちだったからこそ、今読んでいる『薬草まじない』の痛快さにハマっているのかもしれません。

薬草まじない (岩波文庫)

薬草まじない (岩波文庫)

ブランドン・コールマン『セルフ・トート』

完全に“ジャケ買い”したアルバムです。ブランドン・コールマン『セルフ・トート』。
アナログシンセに囲まれて、素敵な笑顔で弾いている……このジャケットだけで買おうと思いました。

実際に聴いてみて……ジャズというのかな、ソウルというのかな、いろいろ詰まった8曲入りのアルバムなのですが、ジャンル的には自分が今まで手を出さなかったジャンルなのですが、とてもいいです!
午前というか、朝聴いて楽しくなる音楽。
もちろん夜でもいいんだけど。

YouTubeとかで彼が演奏している映像とかも見たのですが、素敵なキーボーディストです。

Daughter - "Shallows" (Live @ Air Studios)

YouTubeを観ていて気になったのでメモ。
UKロックバンド・DaughterがAir Studiosで演奏を行った「Shallows」という曲の動画です。

僕は、こういう憂いのあるような女声とエレキギターが絡む感じが好きなのですが、それはともかく。
この曲の途中で、グロッケン(鉄琴)の鍵盤(と言っていいのかな?要するに金属板)を弦楽器で使うあの弓でこする、という演奏があって、そういう演奏法があったのか!と浅学な僕は驚いたのでした。

他にも気になる曲のMVとかもあったので、今後も気にしていきたいと思いました。
(もう随分前から活動してリリースもしているんですよね。ほんと、浅学です)

花澤香菜「透明な女の子」を聴いて

僕にとって2015年は、花澤香菜さんの歌声を聞き、そして研究対象として考える……という1年でした。
いやあ、充実していました!

ご縁があって、日本武道館での公演を鑑賞し、名古屋公演も鑑賞し、歌声をライブで楽しむことができてよかったです。
そして、研究においては、「昭和文学会」という学会で花澤さんの朗読について研究発表する機会を得て、
(それについては、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20150413/1428854881
その発表に基づいた論文も書くことができました。
広瀬正浩「声優が朗読する「女生徒」を聴く 声と実在性の捉え方」『昭和文学研究』第71集、2015年9月、昭和文学会)

そして2016年ですが、まずはシングルが発売されましたね。『透明な女の子』。
初回限定盤のジャケットだと、花澤さんが髪を金色に染めている写真が載っていて、それが少し話題になっていました。

聴いて思ったのは、(あくまで個人的な印象ですが)今までの曲よりも、ボーカルの部分が聴きやすいなあ、ということでした。
これはどういうことかというと、(あくまで個人的な印象ですが)今までの曲よりもボーカルにコンプレッサーがかかっていない感じになっていて、つまり、「音圧上げてます」感が少なくなっているので、声が伸びやかに聞こえるのです。
その伸びやかな声の聴感のため、自由に歌ってるなあ……というイメージを持ちやすいのです(あくまで僕の中での印象)。

もちろん今までの曲だって、そんなにコンプがギンギンにかかってはいなかったとは思います。
でも、たとえばの話、花澤さんの声の魅力の一つとされる「ウィスパーボイス」にコンプがかかって音圧が上がっていても、聴いていて「囁かれているわー、癒し感じるわー」とはなりにくいでしょう。

というわけで、今までの曲よりも聴きやすいので(ヘッドフォン聴取の感想)、これからも何度も聴きたいと思います。
僕は、タイトル曲よりも、2曲目に収録されている「パン屋と本屋」のほうがお気に入りです。