三浦綾子『氷点』上下巻(角川文庫)を読んで

最近読んだ本について。三浦綾子『氷点』上下巻(角川文庫)についての感想です。

新年度の3年ゼミに入ってくる学生の1人が、三浦綾子の『氷点』にすごく心を揺さぶられたと言っていたので、改めて読み直してみようと思い、手に取りました。

しかし、実際に読んでみて、もういきなり序盤で気付いてしまったのですが、この『氷点』は初めて読む作品でした。今まで読んだことがあるつもりでしたが、僕の誤った記憶でした。
僕が実際に読んでいたと思われるのは、同じ三浦綾子の『塩狩峠』だったみたいです。ああ、恥ずかしい。

とてもヘビーな作品なので、それなりに僕も読後の感想を抱いたわけですが、感想や疑問点をここに多く書いてしまうと、この文章をその学生が目にしてしまった場合、学生にあまり芳しくない影響を与えてしまうかもしれません。
なので、できる限り控えめに感想を記しておこうと思います。


……読んで思ったのは、主要な作中人物たちがあまりにも自己中心的だということ。
三人称の語り手であるため、登場人物の内面を自在に語ってしまう語り手なのですが、この語り手は彼らがいかに自己中心的かを躊躇なく語っていく。
それで、その個々の濃い自己中心性がすれ違いすれ違いして、悲劇が生まれていきます。

語り手による方向付けもあるかとは思いますが、夏枝という女性の自己中心性が、かなり酷いものとして描かれていると思いました。
「昔美人だった人」が、それなりの年齢になってからも「ちやほやされたい」と考えていて、そのあたりが諸悪の根源のようなものとして描かれている。
作者は女性ではあるものの、語り手としては女性嫌悪の語りを展開しているのかな、と感じました。

「原罪」というのが、この作品のテーマの一つのようですが、僕が強く感じたのは、そのような普遍的なテーマと同じくらい重いものとしてある、「終戦後」という時代性です。

あとそれと、僕が読んでて驚いたのが、夏枝が「避妊手術」を受けているということ。
不妊治療とかじゃなくて、避妊手術。
避妊具を使ったりするのでもなく、性欲を我慢するのでもなく、避妊手術……。
まず「そんな手術があるんだ!」という、僕の浅学(?)ゆえの驚きもあるのですが、「手術をしてまで性行為を大切にするのか!」という夫婦の思想に、少なからず驚きました。

……一応、瑣末なところでの感想を書いたつもりです。
学生の研究意欲を削ぐようなことを書いたつもりはないですが、いかがでしょうか。

とりあえず文庫の上下巻を読み終えましたが、まだ『続氷点』(上下巻)があります。
引き続き読んでいこうと思います。

氷点(上) (角川文庫)

氷点(上) (角川文庫)

Underworldの新譜を楽しみに

かなり久々のブログの更新です。

この間、論文も書いたり、読書もしたり、音楽も聴いたり……と、いろんなことをしてきてはいるのですが、自分の言葉でそれらの経験を整理していくということをしないと、ただ漫然と時間ばかりが過ぎていくような気がして。
だから今後は、自分が経験したことをなるべく言葉にしていこうと思っています。
自分のためにも。

誰かと繋がるということであれば、TwitterFacebookのような、より特化した場があるわけですが、そういう繋がりというよりも、先にも書いたように、自分の経験を整理するという意味で、ブログを書いていきたい。
もちろん、ここに書いたことが誰かに読まれるということは、僕にとっても嬉しいことなので、誰かに読まれるといいなと思いつつ、自分のことを書いていければいいなと思います。


まずは音楽ネタ。
最近は(一時期に比べれば)アニソンとかをあまり聞かず、電子音楽とかテクノっぽいものを意識して聴いています。
やはり、僕にとっての原点(の一つ)でもあるUnderworldは、いつになっても好きです。

【告知】昭和文学会・学会発表「特集 声と再現性」

告知が遅くなってしまいましたが、告知です。

僕が所属している昭和文学会の研究集会で、発表することになりました。

和文学会  2015(平成27)年度 第56回研究集会【特集 声と再現性】
■日時:5月9日(土) 午後2時より
■会場:膻浜国立大学 教育人間科学部講義棟 7号館 101教室
■発表者:広瀬正浩、真鍋昌賢、鷲谷花(敬称略、発表順)

詳しくは学会のHP(http://swbg.org/wp/?p=816)をご確認いただけると良いのですが、僕の発表要旨については、以下に記します。

◎声優が朗読する「女生徒」を聴く ――声と実在性の捉え方――
広瀬 正浩(椙山女学園大学
近年、人気声優が朗読する近代日本文学の名作のCDやCD付き書籍が多数発売されている。声優の存在に注目が集まる今日のアニメ文化の広がりを、そこに見ることができる。この中に、花澤香菜が朗読した「女生徒」(2012年)がある。周知のように、「女生徒」(太宰治、1939年)はこれまで様々な視点から〝実在性〟が問題とされてきた。語り手である少女の非実在性・虚構性が話題になった。また、この小説が、実在した女性の日記からの大幅な引用によって構成されたという事実を受け、男性作家・太宰治の表現の政治が問われるようにもなった。ただ、声優という独特な発話主体のその声を、音響装置等を通じて聴き取ることができる立場にある今日の私たちは、「女生徒」をめぐる実在性の問題に、従来とは別の仕方で接近することができる。本発表では、音響装置と私たちの想像力との協働によって立ち上がる身体に着目し、女生徒の実在性について再考する。

とりあえず、発表の内容については、発表要旨以上のことは、今はまだ書かないつもりでいます。
発表の中で、花澤香菜さんを取り上げます。
花澤さんの声の演技も歌も本当に大好きなのですが、発表そのものは、あまり主観的にならないと思います。
僕以外の発表者は、文化史的な観点から「声」に迫ろうとしていますが、僕の発表はあまり文化史的ではないかもしれないですね。

実は昭和文学会では、2009年にも学会発表を行いました(http://swbg.org/wp/?p=172)。そのときの特集は「文学と音楽の昭和」でした。
……もう6年前ですか。

また、発表が終わったら、この場でも報告したいと思っています。

声と身体を考える研究会(@新潟大学)に参加します!

教員だって、春休みは有意義に過ごすぞ! ……ということで、3月に僕が発表者として参加する研究会のお知らせです。

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「現代映像文化における声と身体―アニメーションを中心に」

【日時】2015年3月18日(水)14時
【場所】新潟大学 総合教育研究棟 D棟 一階 大会議室

【発表者・題目】
石田美紀新潟大学)「デジタル時代における俳優の声―実写とアニメーションの融合領域」
小林翔(京都精華大学大学院)「アニメにおける声―声優・キャラクター・身体の関係性から」
広瀬正浩(椙山女学園大学)「発声者の身体をめぐる幻想――シチュエーションCDについて考える」
討議 コメンテーター キム・ジュニアン(新潟大学

【主催】科研費・挑戦的萌芽課題「デジタル時代における〈声〉の様態と経験に関する領域横断的研究」
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恥ずかしながら、生まれて初めて、新潟行きます。
僕に声をかけてくださった石田美紀さんとは、一昨年の夏に「あいち国際女性映画祭」で「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 前編・後編」が上映された際に行われたシンポジウムで知り合いました。
(そのときの情報は http://www.aiwff.com/2013/events/madoka-magika.html )
一方の小林翔さんとは、初めてお目にかかることになります。

声優の声に焦点をあてる研究発表会ということで、結構興味深い討議になるんではないかという予感がします。
特に僕は、「シチュエーションCD」(ダミーヘッドマイクで収録されたイケボがリスナーを酔わせる例のアレ)を扱うわけですが、要するに、声とリスナーの関係を〈性愛〉をキーにして考えていきたいと思っています。
自分としては、かなりの挑戦です。

お近くにお住まいの方で、興味をお持ちの方は、ぜひ聴きに来てください。
遠方の方は、心の中で応援していただけると嬉しいです。

「人外に恋しても」

昨日、非常勤先である愛知教育大学で、
「人外に恋しても」
というタイトルのプレゼンをした。

「国文学演習」という授業で、学生たちに研究発表をさせていて、それに対するコメントを僕がする……という演習形式の授業をおこなっていた。
扱っていた素材は、森見登美彦有頂天家族』と『四畳半神話大系』。

しかし、学生の発表を聞いているうちに「自分ならこう論じたい」と思うようなことも生じてきたり、「私たちにやらせるのはいいけど、じゃあ、先生ならどう発表するっていうのさ?」という学生の“声なき声”が聞こえてくるような気もしたような気もして(本当には聞こえてこなかったけど)。
そういうわけで、自分が自分に宿題を出すような気持ちで、発表を担った、ということになる。

人間と人間以外との恋愛関係について考えるというこの内容は、今回の授業とは別に、自分の中で考察していたものである。
このブログでも言及したことがあるのだが、
http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20150130/1422557748
僕の本務校である椙山女学園大学で、アニメ・マンガ研究支援プロジェクトをやっていて、そこで研究同人誌『るいともっ!』というのを作っているのだが、そのVol.3に掲載するための文章として、同じ題名のエッセイを既に書いていたのだった。
その文章を、口頭発表用にまとめ直して、昨日学生の前でプレゼンをしたのである。

人間と人形との関係ということで、西尾維新憑物語』の一節も引用し、朗読したのだが、そのときに、アニメでの忍野忍の話し口調を真似てみたのじゃ、お前様。

……。

もし授業を受けた学生で(受けていない学生でも全然OK)、読んでみたいという風変わりな人がおりましたら、今年の4月以降の展開にご期待あれ。
アニメ・マンガ研究支援プロジェクト自体も、来年度は攻めでいきたいと思うておる。


ところで。
この「人外に恋しても」という発表なんてまさにそうなのだが、僕の研究の仕方には、ある方法的な特徴がある。
他の研究者もそうかもしれないけど、少なくとも「僕はこうしているよ」というのがある。
それは、

  自分に対してむちゃぶりをして、それをクリアする!

というものだ。
大変素朴ではあるが、僕にとっては大切な手続きだ。
自然に心惹かれるものを論じるのではなく、「むちゃぶり」によって自分の知見を広げていくという感じ。

例えば、「幻聴ではなく、本当に聞こえたんだ、という理屈を組み立てよ」とか「幻視ではなく、本当に見えているんだ、という理屈を組み立てよ」とか、そういう「むちゃぶり」を自分に対しておこなって、その理屈を組み立てるための材料を集めたりしていく。
もちろんその理屈は、「屁理屈」であったり「詭弁」であってはいけなくて、「幻聴でしょ?幻視でしょ?」という人たちを説得できるものでなければならない。
説得できる材料を用意し、だからこういうことが言えるんだ、というものを示すことで、“客観性”というものを構築していく。

もちろん、こうした研究方法は、ある意味で「結論ありき」なものなので、弊害はある。
弊害だらけかもしれない。
都合のいい材料ばかりを集めたくなる、そんな欲望との戦いが待っている。
むちゃぶりしなければ、そんな不毛な戦いをせずに済むのかもしれない。
しかし、逆に、都合の悪い材料をあえて俎上に載せ、それらを論破していくことで、持論が補強される。
そして、むちゃぶりを自らクリアすると、それなりの達成感も得られる。
もちろん、新たな課題も見つかる。
だけどそれは、次の研究のモチベーションにもなる。


僕は職業柄、学生を前にして、研究方法について語る機会が多くある。
……それが職業だし。
いろんな研究方法が実際あるし、その時々によって、語る内容も異なったりもする。
しかし、基本的に曲げることのない軸として、「研究は楽しい」というスタンスは伝えるぞ、という気持ちがある。
自分が「楽しい」と思えないことを、他の人に薦めることなんてできやしない。
「卒業のために仕方なく研究しようね」とか、「面白くないけど頑張ろうね」なんて、学生も聞きたくないだろう。
……すっごく“自己肯定感まる出し”な感じだが、自分が楽しそうに研究したり、研究することに面白がっているその姿勢が、学生へのメッセージになると思う。

そりゃあ、研究者って努力の割に稼ぎは少ないし、世間離れしていて社会的にも馬鹿にされているところもなくはないし、将来性がよく分からないけれど。
しかめっ面して研究してたって、周囲が暗くなるだけ。
勝手にやってろ!って感じ。

だから、自分としては、今までどおり、面白がってやっていきたい、と思っている。

最近思うこと(研究・お仕事編)

久々に、ブログを書いてみることにした。
Twitterではいろいろ呟いているが、なんか長文が書きたくなったのだ。
自分の心の中のことを痕跡として残しておくためにも、この場を借りることにする。


2014年度の授業も、まもなく終わりを迎えようとしている。

今週の初めに、本務校(椙山女学園大学)での「日本文学史(現代)」の授業が終わった。
この授業は、前年度までの文学史の授業内容をある程度は踏襲しつつも、授業名そのものの変更により、内容も、自分なりにチャレンジしなければならないことが多くあった。
にしても、「文学史(現代)」とは、罪なタイトルである。
文学史」というからには、ある程度の時間的なスパンが想定されているべきはずなのだろうけれども、「現代」という枠組みによって期間が短く区切られてしまっている。

……まるで、長距離走(短距離部門)と言われているようなものではないか!

とはいえ、このタイトルを承認したのは、他ならぬ僕自身だ。
というわけで、《現代の文学を時代性を意識しながら考察する》という狙いを立てて授業をすることにした。これなら、あまり無理はあるまい。
そして、5つのテーマを立ててみた。

 ・コミュニケーションを重んじる社会
 ・増殖するラブコメ
 ・デジタルメディアの政治性
 ・「心の闇」をめぐる物語
 ・ループと世界認識

このテーマに関連する小説やアニメなどを取り上げて、私たちの生きる時代における考え方・価値観を話題にしていった。
まぁ、自分でも頑張って教えたつもりだが、もちろん頑張ったのは学生たちも、である。
最後の授業に、任意で感想を書いてもらったが、彼女たち(本務校は女子大です)が物語とか表現文化というものを考えていく上で、僕の授業がある程度の影響を与えたみたいなことが、それらの感想からうかがえて、僕としては「授業やって良かったな」と思っている。
もちろん、義理でそういうことを書いてくれた心優しい学生諸氏もいることだとは思うが、……そこはまぁ、いいではないか。
ただ、思いのほか多かった感想に「先生のおかげでいろんなアニメを知ることができました」的なものがあるのだが、注意してほしい、これは「文学」の授業だったんだよ。
(だけど、別に注意しなくていい)


2013年に初の単著『戦後日本の聴覚文化 音楽・物語・身体』(青弓社)を出して、しばらく経つ。
自分としては、そろそろまた何かを書きたい・出したい、と思い始める頃なのだが、この本のおかげで、研究者としての今の自分が支えられているなあということを、折に触れて思う。
たとえば、学会の機関誌などで書評していただき、非常にありがたいお言葉(ならびに課題)をいただいたりする。
また、聴覚文化関係の研究発表などの依頼をしてくださる人が現れたりもする。
僕が書いたものが、僕をいろんなところに連れて行ってくれるのだ。
これは僕が昔から(中学生頃から)思い描いていたことではないか。
ということで、僕はこの今の状況を、幸せなことだと思っていいのだと思う。……思わなければならないのだと思う。
しかし、僕は欲深い。
さらにいろんなところに連れて行ってもらいたいのである。
……というわけで、またいっぱいいろんな文章を書いて、本を出せるようにしたい。

ところで最近、本務校の所属学部(国際コミュニケーション学部)で出しているアニメ・マンガの研究同人誌『るいともっ!』のVol.3の編集・作成に関わっている。
……関わっている、とは言っても実際に編集してくれているのは、有志の有能な学生ちゃんである。
試験期間という多忙な時期に、非常に頑張ってくれている。感謝である。
そして、表紙絵も“俺得”的な感じで、非常に素晴らしく仕上がりつつある。これまた感謝である。
この研究同人誌もまた、この僕を、そしてもちろん学生ちゃんたちを、いろんなところに連れて行ってくれるだろう。
……連れて行ってくれるよう、事前の条件整備は必要だけれども。
その条件整備もまた、楽しいのだけれども。


ところで。
またまた「ところで」なのだが。
大学院時代の悪友(今は素晴らしい研究者)とお喋りする機会が最近あって。
そのお喋りの流れの中で、僕がその悪友に「いやいや、頼まれた仕事は基本断らないでしょ(断れないでしょ)」と言ってみた。
そしたら、「いつまでそんなことを言っているの?」的なツッコミを受けた。
その悪友いわく、依頼された仕事をいちいち引き受けていては、本当に自分のやりたい仕事をやる余裕がなくなってしまうではないか、もう既に職を得ている身としては、別に依頼を断ったからと言って立場がなくなることはなかろうに、ということのようである。
……確かにそうかもしれない。
しかし僕は、大学の職に就けなかった時期が長かったのである。
依頼を断ったら「あいつ生意気に。何様だと思ってるの?」と思われるのではないか、と思ってしまうのである。
もう仕事が来なくなるのではないか、と思ってしまうのである。
貧乏性なのである。
大学院生のメンタリティが抜けないのである。
……いや、ひょっとしたらその悪友は、「お前、もう40歳なのだから。そろそろ若い人に仕事を譲れよ(笑)」ということを言おうとしたのかもしれない。
その悪友、優しいから。僕に直接的にはそのように言わず、遠回しに言うつもりで、前述のようなことを言ったのかもしれない。
そうかもしれない。
しかしだ。
誰かが僕にもたらしてくれる仕事が、僕をいろんなところに連れて行ってくれるのだ。
その楽しさは、手放したくはない。
だから、たとえ多忙であっても、たとえ他にやりたい仕事があっても、よほどのことがない限り、引き受けたいとは思っている。
仕事を選ぶのもいいけど、仕事に選ばれるのも良いではないか。
(↑そう言えるうちが華、である。)
(世の中には「ブラック×××」というものが多々ある、という。)

……しかし、本当は忙しいのである。
仕事と趣味と生活との区別がつかないような領域に入ってしまうと、結局はずっと仕事をしているような気がして嫌になるし、ずっと遊んでいるような気がして後ろめたくもなるし、もうどうしていいか分からなくなるのである。


少しずつ、2014年度が終わっていく。
良かったこともあれば、反省すべきこともある。
謙虚に1年間を振り返りつつ、次年度に備えていきたい。
しかしその前に、レポートの採点が待っている。

卒業生たちの1か月と浦島太郎と。

久々のブログ執筆……。

一昨日のことですが、大学でいきなり、卒業生(元ゼミ生)と出会いました。
営業の仕事として大学に来たようです。
久々の再会に、笑顔で僕に応対をしてくれた彼女の姿は、確かに見慣れたものではありました。
しかしやはり、会社というものを背負って来ているからか、かつてのそれとは少し違うもののように見えたのも、また事実でした。
名刺交換なんてこともしました(←実は僕は嬉しかった)。
「まだ研修期間ですから」とは言っていたけど、やっぱり大学生ではない姿をしていて、彼女にとっての1か月というのはそれなりに濃密だったんだろうな、と思いました。

その日は、もう1人、卒業生(同じく元ゼミ生)と会いました。
こちらは会う約束をして、会ったものです。
ただ、こちらの彼女は土日も仕事なので、会うとしたら平日なのですが、その平日の都合がなかなか合わず、何度か調整を重ねて、ようやく会うことができたという感じでした。
彼女とは在学中からアニメや声優について話をすることが多く、今回もそういう方面の話で盛り上がりながら、自分の中ですっかり乾いてしまっているオタク成分を満たすことができました。
仕事の話もいろいろとしました。
彼女は大学の廊下を歩きながら、授業をやっている教室を少しのぞき見て、隔世の感のようなものを抱いたようでした。
卒業してたった1か月しか経っていないのに、もう大学生活というのは遠いものになってしまったようでした。
そのことをとても寂しそうに語っていました。

僕は、新年度が始まり、新しいゼミや新しい講義で新しい学生と接したり、新入生と新しい出会いをしたりして、教員生活としてもそれなりに新しいモードに移行しているわけですが、こうしたことって、毎年経験することなので、実は新しい経験ではないのです。
だから、卒業した彼女たちの1か月と、僕のこの1か月は、全然質が違うんですよね。
濃さが違う。
だから、僕は彼女たちの話を聞いて、何だか置いてきぼりにされたような気がして、ちょっと涙が出そうになりました(出てはいません)。


話が少しだけ逸れますが……
思えば、大学教員である僕の周りには、常に、18〜22歳の学生がいます。
もちろん入学したり卒業したりしていくので、一人一人の顔は違うんだけど、常に18〜22歳の学生が周囲にはいるのです。
ところで人間って、周囲の人々との関係によって構築されていく部分があります。
僕の場合は、18〜22歳の学生たちとの関係によって構築されています。
周囲の人々の年齢は「18〜22歳」ということで、ある意味不変なので、《周囲との関係性によって構築される僕》という存在は、不老なのです。
キルドレ」と呼んでくれてもいい。
ですが、言うまでもなく、僕の実年齢は増えていきます(いま40歳です)。
そうするとどうなるかというと、「浦島太郎」状態に突入するわけなのです。
本当は老いていっているのだけれど、《周囲との関係性によって構築される僕》という存在にリアルを感じている僕は、自分の老いに自覚できない。
気がついたら浦島太郎のように「おじいちゃん」ですよ。
そういう怖さが、この世界(教育業界)にはあるんです。


無時間的な世界の中でオタク的なことを考え続けている僕と、そうした世界をすり抜けて新たな世界に足を踏み入れている卒業生たち。
どちらが立派かと言えば、無論、後者でしょう。

そんな情けなさを感じる、ここ最近でした。