藤田直哉『虚構内存在』を読んだ

ブックレビューを初期のモチベーションとしていたブログの方針に立ち戻りつつ(笑)、読んだ本の感想を。

  藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』
  (2013年、作品社)

藤田さんはもうSF・文芸評論家としても結構活躍されているようです(全然知りませんでした、すいません)。
タイトルがとても興味深かったので、読もう読もうと思っていたのですが、浮気ばかりしていて、でもようやく読めました。
藤田さんは1983年生まれ。自分より10歳も若い評論家の大きな仕事を前に「僕の10年前って…」と恥じ入ります。
現実と虚構の安易な二項対立に拠らない藤田さんの思考は、僕も共有するところ。
でも、今日「現実」の意味の更新が謳われている中で「虚構」という言葉に拘るんですね。これは藤田さんの戦略でしょうか。

全体で3部構成ですが、第1〜2部が筒井康隆論。第3部が今日的なトピックに即した「現実/虚構」論。
人間にとって、自らの生を規定する根拠として「虚構」があってもいいじゃないか、その根拠としての「虚構」を守るためにも「虚構権」なるものが樹立されるべきだ、という意欲的な主張。

読み始めたとき僕は「何やら迂回しているな」と思いましたよ。第3部がメインだと踏んだので。第3部での「虚構内存在」の術語は、筒井の文脈を超えているし。
独自で術語を用いるなら、筒井作品(前期)を網羅的に論じる必要もなく、持論を補強するに便利な程度に援用すればいいのだから。

彼はきっと筒井康隆論【も】やりたかったのかな。
でもそれならば、他の論者の筒井論とのバトルも見たかったし、なぜ他の作家ではなく筒井なのか、という点についてももっともっと言及されてても良かったのではないかと思う。
〈文芸評論〉じゃなく〈文学研究〉ならそこが問われそう。
ちなみに僕は自分のことを「文学研究者」だと思っています。

第3部は共感します。
「なぜデモに行かない?」という強迫観念(?)に抗おうとしている点は、毛利嘉孝『ストリートの思想』への批判になってる。
ただ異論もあります。
282頁「匿名の叛乱」の説明のところで「生命の危険がそこにはないし、身体性がない」と書いてあるが、「身体性」という言葉はもっと厳しく捉えるべきではないか。

しかし押しつけはいけない。
僕自身が「身体性」という言葉、「実在性」という言葉を大切に使えばいいのです。
そのことを考えさせられました。
その意味では大変刺激を受けました。

読むべき本

最近はアニメを見た感想ばかりをこのブログに書いているわけだが、元々は、読んだ本の感想を書くつもりであった。
アニメについてばかりを書いている、ということは、それだけ、読書をしていないということになる。

僕が現在「これは読むべきだ!」と認識して、かつ、手元に取り寄せているのは……

藤田直哉『虚構内存在』(作品社)
・渡邊大輔『イメージの進行形』(人文書院
いとうせいこう「想像ラジオ」(雑誌『文藝』2013年春号)
西尾維新『アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』(講談社文庫)
・『EUREKA SEVEN AO オフィシャルコンプリートファイル』(角川書店

『虚構内存在』は、あと4分の1を残しているだけなのだ。だったら、最後まで読んでしまえばいいのに。
自分の研究内容とも結構かぶっているんですよ! ……違う部分も大きいけど。
でも、浮気性というか、他の本も気になったりする。

で、さんざん「積ん読」して、結局目を通したのは……

 ・『じょしらく』5(DVD付限定版)(講談社

でした。魔梨威さん、かわいいし面白いから。

Le Petit Prince 星の王子さま

とある事情により、次の本を読みました。

  サン=テグジュペリ星の王子さま』(内藤濯訳、岩波書店

実は、初めて読んだんですよね〜、この話。

王子さま(=子ども)が大人の価値観や想像力を相対化していくお話……として要約することもできるけど、何かを自分にとって特別なものとして大切に思うという気持ちが大切なんだというメッセージもあって。

リトバス』第14話を観た後だから余計に、「何かを自分にとって特別なものとして大切に思う」ということがとても優しくて尊いものだというふうに感じました。

さあ、次の本も読まなくては!

昨日の記事の訂正

昨日執筆の記事(http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20130116/1358339629)に、誤りがあったので、訂正します。
(ちなみに、昨日の記事はもう修正済みです)


【誤】セクシーショットからのラブコメ(腹を括ったシリカ三四郎ばりに奥手のキリトによる)
 ↓
【正】セクシーショットからのラブコメ(腹を括ったアスナ三四郎ばりに奥手のキリトによる)


シリカはセクシーショットするには、ちょっと幼いかな。
児童ポルノになってしまうのでは。
……ヒヤヒヤします。

趣味が出過ぎた?授業の終焉

今日は、かねてより挑戦を続けてきた授業「テクノロジーと文学」が最終講を迎えました。
シラバスはこちら。
https://portal.sugiyama-u.ac.jp/syllabus/syllabus/search/SyllabusInfo.do?nendo=2012&kogikey=41610001

どういう意味で「挑戦」だったかというと、本来担当するはずだった先生が仕事の都合で担当できなくなり、本年度の前期の途中で急に担当することが決まったので、慌てて授業内容をつくりあげた、って意味で、挑戦。

もう一つは、「オタク」「研究者」「教育者」という三つを全て成り立たせたときに、どんな地平が拓けるんだろうか、がんばろうぜ、って意味で、挑戦です。

今日は最後の授業だったのに、前日寝過ぎてしまって、あまり満足のいく授業準備の時間がとれなかったのです。
でもまあ、何とか頑張って、まとめた、と。

内容は、今までの授業の振り返りをしつつ、アニメ『ソードアート・オンライン』第10話を参照しながら、身体を考える、というものです。
第10話は、デュエル(決闘のシミュレーション)、殺戮(クラディールによる)、セクシーショットからのラブコメ(腹を括ったアスナ三四郎ばりに奥手のキリトによる)という、身体を考えるにはうってつけの回だったのでした。

デジタル情報の構造体だと割り切っているはずの身体に対して「これは私の身体なのだ」という所有意識を抱く、この身体をめぐるリアリティを、ああでもないこうでもない、と解説したのでした。

実は『ソードアート・オンライン』自体を取り上げるのは、今回で2度目だったんですけどね。


最後に、みんなにこれまでの授業の感想を書いてもらいました。
多少のお世辞は含まれているんだろうけれど、みんなそれなりに満足してくれたみたいで、ホッとしています。

僕が作品に対する愛を惜しみなく示しながら分析したところも、良かったみたいで。
でも実はこれ、狙いだったのです。
この授業には、僕のゼミ生および来年度ゼミ生になる学生たちが何人か受けていたのですが、彼女たちに、「自分の好きな作品を、『好き』ってだけで終わらせるのではなく、そこから〈研究する姿勢〉を作りだしていくんだZ。そうすれば、強くなれるんだZ」というのを示したかったのです。
示したくてしょうがなかったのです。

でも嬉しい副作用(?)もありました。
おそらく非オタクな学生たちが、授業を通じてアニメの面白さ(主に『ソードアート・オンライン』や『四畳半神話大系』)に目覚め、個人的に全話観賞したり、自分の研究の参考にしてくれたりしたのでした。
この授業における僕のパフォーマンスは、最初からきわめて問題提起的なものであったので、その意味では、パフォーマンスは成功していたのでした。

授業準備にずっと徹夜までし続けていたんだし。このくらい報われてもいいよね?

来年度はいろんな仕事の関係で、担当する授業が減少してしまうのですが、後期にやる予定の通称「ラブコメ文学史」で、また、いろいろ挑戦したいです。

今野真二『百年前の日本語』(岩波新書)

僕はたいてい、複数の本を同時に読み進めていくのですが、いくつか並行して読んでいる本の中で、ちょっと面白そうだなあと思ったのが、

  今野真二『百年前の日本語 書きことばが揺れた時代』
  (岩波新書、2012年)

です。

僕は一応、近現代日本文学の研究者ということになっているのですが、明治時代のことは正直言って、弱い。
(弱い、といっても、一部の人と比べたら、強いかもしれない。でも、どうでもいい)
だからちょっと明治期の日本語表現のことを補っておこうと思って読み始めたのが、この本です。
新書ということもあって、いわゆる研究書じゃない。
軽い気持ちで読めるから、門外漢(日本語学の研究者ではないという意味)の僕でも大丈夫。

まだ本当に読み始めなのですが、面白い指摘だなと思ったのが、以下の部分。

小学校や中学校において、教室で配布される教材は、かつては手書きの原版を謄写版で印刷したものだった。それは「手書きを印刷したもの」、つまり「印刷(という手段)によって手書きを再現したもの」であったといえよう。しかし、現代に生きるわたしたちが眼にする「書かれたことば」は「手書き」されていないことが多い。教科書に印刷された活字をもとにして漢字字体を学習、修得し、それを「手書き」している小学生は「印刷されているように手書きする」ことを習っているともいえよう。「手書きのように印刷する」と「印刷されているように手書きする」とはいわば正反対である。(2頁)

僕は、テクノロジーによって構成される身体性とか、フィクションとしての自然とか、そういうことに関心があるので、この上に掲げた「手書き」をめぐる私たちの状況についての指摘が面白いなあと思う。
本当に、「手書き」って、どういうことなんだろう、この現代において。

よく事務的な書類とかで「自署」が求められたりすることがあるけど、「手書き」にはその書記者のアイデンティティが見いだされているわけですよね。
このときの「手書き」「書きことば」は、「話しことば」と対比されるレベルとは異なるレベルで、発信者と結び付いている。
「手書き」であること、「自署」であることが、この現代においても信頼されているってのは、ホント、奇跡なんじゃないの?
その信頼されている「手書き」が、印刷技術が再現するフォントを模倣して成り立っている、ってね。

……とにかく、まだ読み始めです。
上で引用した部分だって、2頁のところですからね。
今後ブログでこの本を紹介するかどうかは分かりませんが、僕の弱点である「明治時代」を補うためにも、読み続けてみようと思っています。

『メタフィクションの圏域』いただきました。

著者の方から、次のような本をいただきました。

  西田谷洋・五嶋千夏・野牧優里・大橋奈依『メタフィクションの圏域』(花書院、2012年)

内容(目次)も紹介させていただくと、

 ・はじめに(西田谷洋)
 ・岩手県を「翻訳」する〈イーハトーヴ〉(五嶋千夏)
 ・太宰治人間失格』論(野牧優里)
 ・自己パロディ・境界・オープンエンド(大橋奈依)
 ・村上春樹アフターダーク』の方法(西田谷洋)

となっております。

メタフィクション」という言葉は、自分も文学関係の授業ではたびたび口にするし、自分の論文でも使うことはあります。
しかしそれは、何か他のことを考察したり説明したりする際に“利用する”のであって、それ自体について真面目に考えるということはあまりして来なかった気がします。
……本当はしなきゃいけないのに。
だから、このような文学理論の、その理論の根元的なところを再考しようとする研究態度というものは、自分自身の普段のあま〜い態度を反省する契機を与えてくれるのです。

というわけで、そのような契機を与えてくれた著者の方々に感謝すると共に、自分もまた、原理的な考察を大切にしつつ、研究・教育活動を進めていきたいです。

本当にありがとうございました。