【研究発表】研究実践における「境界の彼方」【日本近代文学会・東海支部】

自分が「発表者」として参加する研究会の案内です。

日本近代文学会東海支部 第48回研究会
2013年12月7日(土)14:00〜
愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号棟3階13D教室
http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

1)「全共闘運動の表象形成  「僕って何」と「今も時だ」をめぐって」
  張 政傑(名古屋大学大学院 博士後期課程)

2)「研究実践における「境界の彼方」」
  広瀬正浩(椙山女学園大学

僕の発表についての要旨は以下の通りです。

 文学者の思想について考えること、彼らが経験したことについて実証すること、そして文学作品について分析・解釈することに集中し過ぎている文学研究は、今日、“閉鎖的”と見なされることがある。そしてそのような閉鎖性を打破するための研究上の取り組みとして、「領域横断」「交通」「他者との対話」「越境」などといった概念が、研究実践における倫理としての水準で称揚されてきた。実際、こうした概念をテーマとして取り込んだ学会等の企画も数多く立ち上げられてきた。
 ところで、「越境」という研究上の倫理的な概念が前提としているのは、いうまでもなく“境界”である。しかしながら境界を前提とすること自体の暴力性は問われなくてもいいのだろうか。境界を前提とした倫理は、何の恣意性もない、無垢な倫理として成り立ちうるのだろうか。越境するということが、研究者によってロマン化されているということはないのか。
 本発表は、文学研究の実践において求められてきた「越境」のイメージを歴史化・相対化しようとするものである。これまで学会等の特集・企画などで「越境」がテーマとしてどのように取り込まれてきたかを探り、また、拙著『戦後日本の聴覚文化 音楽・物語・身体』(2013年、青弓社)へと集約されるこれまでの発表者自身の思考の過程において「越境」をどう扱ってきたか自己点検することを通じて、“境界”を前提としてしまう思考の「彼方」を見つめてみたい。
 なお、発表題目中の「境界の彼方」とは、2013年10月より放送されたTVアニメ『境界の彼方』より引用したものである。このアニメの内容については、本発表でも言及する予定である。

「自分が出した本の宣伝をするために、研究発表をするのか!?」と問われたら、沈黙するしかない(笑)。
いや、もちろん、それだけに留まらない話をしたいと思います。
一般的な研究発表って、ある小説について分析して……というものだと思いますが、それとはちょっと違いますかね。
研究方法についての問題提起、みたいな、そういうことをやりたいと思います。

お時間がある方、興味のある方は、ぜひお越しください。
よろしくお願いします。

昭和文学会・秋季大会に参加して

最近、学会に参加していませんでした。
その主な理由は、時間の都合がつかなかったからです。
学会は主に土日に行われるものですが、土日というのはたいがい家庭の用事が入るものですし、校務でも土日がつぶれることがあるので、学会に参加したくてもできないことが多かったのでした。
また、「万難を排してでも聴講せねば」と思う機会が少なかったのも事実です。……しかしこの考え方はダメですよね。自分に関係ないと思うような研究発表の中に驚きの発見をするというチャンスを、自ら手放していることになりますから。

そんななか、昨日(2013年11月9日)に昭和文学会の秋季大会が行われました(@金城学院大学)。
「群衆と文学 戦後から現代へ」という特集でした。
金城学院大学は名古屋にありますし、家から近いと言えば近い。午前中に家の用事はあるものの、遅れて参加することはできそうだ。それに、たまには学会ならではの緊張感を味わっておかないと、だらけてしまう。……などの理由から、参加してみることにしました。
いや、それよりもっと強い理由もありました。研究発表のほかに講演もありまして、その演者が、音楽評論などもされている文芸評論家・陣野俊史さんだったのです。
僕は、拙著『戦後日本の聴覚文化』(2013、青弓社)もありますように、文学と音楽のことを研究対象にしていますので、陣野さんが「群衆」にからめてどんな音楽の話を織り交ぜてくれるのだろうか、という楽しみもあったわけです。

それで、遅刻して参加したわけですが、実際にまともに聴くことができたのは、次の二つでした。

・立尾真士「〈エネルギー〉と〈エコノミー〉  村上龍における〈群衆〉」
陣野俊史「人はどのように群れてきたか  80年代から現在までの小説について」

目的は陣野さんの話を聞くことでしたが、その前に発表なさった立尾さんの話の中に、実は音楽が出てきたのでした。これはラッキーでした。
しかし……なまじ音楽のことを考える機会が多いので、お二人の話を聞いていて、疑問点(不満な点?)も湧いてきてしまいました。
そこで、自分の考えを整理するためにも、お二人の話についての感想を記そうと思います。

しかし、予めお断りする必要があるでしょう。
ここに書くことは、発表会場で、本人たちに直接伝えることができなかったことばかりです。
発表会場での10分程度の質疑応答の時間の中で、自分の考えをうまくまとめることができなかったのです。僕は無能なのです。
うまくまとめることができないまま喋りだしてしまうというのは、相手に対しても、他の聴衆に対しても、失礼なことです。
それに、「群衆」がメインの話の中で、「音楽」の話題で相手に問いただすということは、限られた質疑応答の時間の中、しかも聴衆の殆どが「音楽」にさほどの興味を持っていない中、すべきことではないだろうという判断もありました。
「僕がチキンだから」という理由もあるのかもしれません。←いや、これはないかな。最近何だか「恥知らず」な人間になってきているから。

以下に記すことは、お二人に対する批判(のようなもの)を若干含むかと思います。
しかし、学会という緊張感漂う中で持論を展開するということの大変さは、僕も身をもって経験していますし、そうした経験をなさっているお二人に対する敬意は忘れていないつもりです。
そこだけ、お断りさせてください。
もしこの文章を読んでくださる方がいたとしても、ここに書いてあることは所詮「後出しジャンケン」であるということを、ご理解ください。


・立尾真士「〈エネルギー〉と〈エコノミー〉  村上龍における〈群衆〉」

村上龍『愛と幻想のファシズム』『希望の国エクソダス』のそれぞれに描かれている群衆的存在に目を向け、両者が孕んでいる「希望」の質の違いを浮き彫りにしつつ、それぞれの群衆的存在がシステムに対立しつつも、結果的にそのシステムの論理を模倣しつつ回収されていくということを暴き出した発表でした。
村上龍の小説って、じっくりその文体を味わう文章、というより、情報群って感じがするのですが、その膨大な情報群を精査して、持論を組み立てていく立尾さんの手際は大したものでした。それに、とても早口だったのですが、彼の論旨は僕の頭の中に入ってきやすかったし、要点をかいつまむのが上手いなあと思いました。
さて、問題の「音楽」は、前出の二作品の分析が終わった後に出てきました。
村上龍の『五分後の世界』に描かれる「ワカマツ」という音楽家の音楽(まあテクノでしょうね)とそれに陶酔する聴衆のありよう(レイヴの空間の描写)は、前出の二作品に描かれる限界含みの群衆的存在とは異なり、「市場経済の合理システム」に回収されない潜勢力を持つものだ、と立尾さんがおっしゃったのです。
……ここで僕は「ん?」と思うわけです。
まず、ダンスミュージック(だと思うのですが)が醸成させる情動が、システムのロジックに回収されない云々の話って、音楽評論などでよく見かけるパターンですよね。音楽論的に言って、凡庸なのでは?
そんな凡庸な考えを、今回の発表の結論に持ってきてしまって、大丈夫なのかしらん。
むしろ、凡庸な音楽論を小説の中で展開させてしまった村上龍の想像力を、検証すべきでは?
でも、村上龍の音楽に対する想像力を検証することは、「群衆」をテーマとした学会において求められることではないし、むしろ僕が自分の仕事にすればいいことです。
もう一点。
五分後の世界』の中に登場するこの「ワカマツ」という存在。これは決してアナーキーな存在ではなく、「アンダーグラウンド」(=システム)の中でも割と特別な存在として容認されているのでは? とすると、ワカマツがかりにシステムから逸脱する群衆を創出したとしても、それはシステムが生み出したものなのでは? その意味では、システムに回収されているのでは?
……いつか立尾さんにお答えを聞いてみたいです。


陣野俊史「人はどのように群れてきたか  80年代から現在までの小説について」

講演という形態の問題もあるのでしょうが、非常にくだけた感じで、聴衆に対するサービス心を忘れないお話でした。
陣野さんは、集英社の「コレクション 戦争×文学」の編者だったこともあり、戦争と文学の関係を意識しながら、これまで小説が「群衆=デモ」をどう描いてきたかについて、まとめておられました。
あくまで描写の水準でデモを扱っておられたので、陣野さん自身がデモをどう評価するかということは、棚上げにされていました。
語り手がデモとどういう距離感にあるのかということを重要視していて、デモに積極的に参加したい意識があるわけではないがすっとその中に自然と巻き込まれていくような感覚というものが近年の小説には見られるという話が印象的でした。
音楽については……思っていたよりも出てきませんでした。
ただ、いとうせいこう佐々木中の小説が話題に上がったのですが、彼らは「既に誰かによって書かれた小説を再構成すること」を小説手法としている、とした上で、そうした手法はサンプリングを用いた「ヒップホップ的」なものだそうです。
……え、ヒップホップ的? サンプラーを使った音楽って、ヒップホップだけじゃないじゃん。ブレイクビーツ使ったテクノはどうなるの? 「サンプリング=ヒップホップ」って、どれだけヒップホップは特権的なの?
陣野さんは、佐々木中『夜を吸って夜より昏い』の中に「よる」という音(おん)が多用されている一節を取り上げ、「ラップ的」「同じ音をくり返すヒップホップ的」とも言うのですが、ラップなんて、J-POPにも見られるし、「同じ音をくり返す」だったら、それこそテクノじゃないですか。
いとうせいこうだからヒップホップ、佐々木中だからヒップホップ、っていうなら「リンゴだから赤い」「みかんだから甘い」と変わらないですよね。
それにヒップホップって、音の傾向や手法の問題だけでなく、社会性とか政治性とか、文化の中で帯びざるを得なかった意味というものがあると思います。そういうのをすっ飛ばして「ヒップホップ的」と言ってもいいものなのでしょうか。
「○○的」という言い方って、とても便利だし、日常においてよく用いる形容表現だけど(僕も多用するけど)、結局何も言ってないに等しい…というときがあります。音楽と文学のそれぞれの表現に対してこだわりがある陣野さんだからこそ、そのへんの表現にも厳しくなっていただきたかったです。
だけど、陣野さんのお話を聞いていると、職業柄とはいえ、本当にたくさんの小説を読んでおられるんだなということがわかります。
そのへんについては、本当に敬服しました。


自分の考えを他人に向かって開陳することって、快楽を伴うと同時に、危険をも伴います。でも危険を伴っているからこそ、快楽的なのでしょう。学会に参加することで、そうした快楽に耽っている誰かを見ることによって、「自分もまたそうした快楽に耽りたい」と思ったりします。
今年は、9月の『魔法少女まどか☆マギカ』シンポをはじめ、そうした快楽に耽る機会に、僕自身、割と恵まれていました。ありがたいことです。
2013年も残り僅かですが、あと少しだけ、そうした快楽に耽る機会が得られそうです。
本当に、僕自身、楽しみです。

『戦後日本の聴覚文化』

9月20日は、ほっちゃんこと堀江由衣さんの誕生日でしたが、同時にもう一つ、記念すべき日でした。
僕の初の単著が、店頭に置かれたであろう日なのです。
タイトルは、

『戦後日本の聴覚文化  音楽・物語・身体』(青弓社

実際には、19日以降に書店に並び始めるとのことでしたが、出版社のHPでは20日って書いてあったから、20日でいいじゃないですか。
でも……まだ僕は、店頭に並んでいるところをこの目で目撃してはいません。
一般的な書店には置いてもらえていないかもしれない。
ちょっぴり涙目なところもありますが、でも、今までの自分の仕事がこういう形でまとまったというのは、嬉しいことです。

本書で扱っているのは、小島信夫村上龍室生犀星細野晴臣坂本龍一初音ミク、『けいおん!』、『20世紀少年』、ソウルフラワーユニオン、など多種多様です。
確かに、雑多な感じはあると思います。でも、この振れ幅は僕自身のプライドでもあるわけですし、雑多なように見えながら、実はひとつの軸を共有しているんですよ。
でも、この本を手に取ろうとしてくれる人に対しては、不親切なのかもしれませんね。
文学好きな人は、『けいおん!』論とか初音ミク論を読みたくないかもしれませんし、初音ミクが好きな人は、室生犀星論を読みたいとは思わないでしょう。
読めば「なるほど」と思ってもらえる自信はあるのですが、読んでいただくまでが、険しい道のりな感じです。

だけど、ぜひ手に取ってほしいですね。


戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

かつて堀辰雄を研究しておりました

大学のゼミとかで、卒論指導などをするときには、

「せっかく卒論を書くんだったら、自分の好きなものを研究対象にした方がいいよ。じゃないと、締め切りに追われたりしながら焦って論文書いたりするときに、好きでもないものを相手にするのは、とてもしんどいことだから。好きものが相手なら、大変なことでも頑張れるから」

みたいなことを言っています。

もちろん、異論をお持ちの指導者もいるでしょう。「論文というのは客観性が求められるのであって、少しでも対象とは心理的な距離を置く必要があるんだ」とか。
……それはそれでごもっともなのですが、スタートが「好き」であってもいいじゃないですかぁ!
要は、単なる「好き」で終わらせず、「なぜ私はこれを好きだと思ってしまうんだろう」という自分を見つめ直す作業に至れば、客観性なんて簡単に獲得できるわい!

というわけで、僕もまた好きなアニメや音楽を(もちろん文学作品も)研究対象にしたりしているわけですが、昨日、仕事仲間と喋っていて、

「趣味で小説を読んだりすることってできるの?」

と訊かれて、はっ、としてしまいました。

「好きなことを研究対象にする」ということが高じて、「好きなもの全てを研究対象として見てしまう」というところに陥ってしまっていました。
あれ? 僕には研究以外の領域があるのかな? 研究対象にすることなく「ただ好き!」ってだけで物事を見ることはできるんだろうか?
……分からなくなってしまいました。
アニメを見てても「これって思想史的に言って××だよね」とか意識してしまい、何だか余裕がないような状況になってしまっているじゃないですか。

で、僕にそんな話を振ってくださった方々は、「私は趣味で堀辰雄を読む」とか仰る。
自分とほとんど同い年の教育者(おぢさん)たちが、趣味で堀辰雄、とか仰ってる。
……それはそれで、すごいことだよな、と思います。

実は僕自身、卒業論文のテーマは、堀辰雄でした。堀辰雄の『美しい村』という小説があるのですが、メタフィクショナルな構造をしているその構造自体が抒情性を生んでるよ、という内容の論文でした。

あのとき(卒論を書いていたとき)、僕は堀辰雄が好きではありませんでした。
風立ちぬ』とかに見られるような、主人公と彼女との自閉的な空気感や、主人公の未熟さ(ゆえの傷つきやすさ、傷つけやすさ)は、当時とても親近感を覚えましたが、小説としては「眠くなるなあ」と思っていました。

でも「眠くなる」というのは残念なことだ、と思ったのです。小説に負けてしまっているぞ、とも思いました。この小説を面白く読めたら僕の勝ちだ、と考えたのです。
そこで、面白く読むための僕の“冒険”が始まりました。その軌跡こそが、僕の卒論でした。
卒論を書き終えた頃、堀辰雄が好きになりましたが、研究対象としての興味は、他に移っていきました。

そういう意味では、「「せっかく卒論を書くんだったら、自分の好きなものを研究対象にした方がいいよ」という学生への指導は、僕が為し得なかった青春(?)を学生たちに代わりに過ごしてほしいという、ある種の押しつけがましさがあるのかもしれない。
……学生の皆さん、ある意味、ごめんね。

さて、『風立ちぬ』。スタジオジブリの最新作も、『風立ちぬ』ですよね。
僕の知っている堀辰雄の『風立ちぬ』は、主人公はゼロ戦を造りません。だから、別物なのでしょう。
でも、誤って堀辰雄の『風立ちぬ』が読まれるようになるのだとしたら、それはそれで面白いことでしょうね。
誤解によって堀辰雄風立ちぬ』を読んでしまった人が、変な触発を受けて、新たな『風立ちぬ』論を書いてしまったならば、僕は是非その論文を読んでみたいと思います。

ひさびさのブログ更新

しばらくブログの更新を怠っておりましたね。

理由は、……風邪を引いていてパソコンを開くということが億劫だったことと、読書もアニメ視聴もしていなかったので、書くことがなかったのです。

いま幾つかの本を並行して読んでいるのですが、このあたりのものを。
円堂都司昭『ソーシャル化する音楽』(2013年、青土社
・渡邊大輔『イメージの進行形』(2012年、人文書院
・大浦康介編『フィクション論への誘い』(2013年、世界思想社
・フランク・ローズ『のめりこませる技術』(2012年、フィルムアート社)

どれも面白いし、部分的にでもこれは引用したいなあというのはあります。ただ、このブログで紹介できるほど、各著書について読み込めていないのが実情です。
現在僕は、自分が過去に書いた文章(論文)を再読していて、それらを補強するために読んでいるのが上に記したようなラインナップなのです。

ほんと、……早く自分も本が出せるように、頑張りたいです。

体調は良くないが、仕事はまとめたい

はっきり言いまして、ここ数日、体調が絶不調でした。悪寒、頭痛、胃もたれ。……たぶん風邪だと思うんですけどね。熱も少しあり、医者から「インフルエンザの初期症状に似てはいるのだが」的なことを言われて、少しビクビクしていましたが、まあ大丈夫のようです。
というわけで、ブログも更新できませんでした。

しかし、仕事(研究)のことはそこそこ考えておりました。そろそろ、今まで自分が書きためてきた論文をまとめようかなあと思っているのです。
とは言え、悩みもあります。
研究を始めた頃と、今とでは、向いている方向が違うということです。……具体的に言うと、想定する読者が変わってしまった、ということです。

僕がまだ大学院生だった頃、やっぱり「いかに自分が難しいことを考えているか(=いかに自分が賢いか)」ということをアピールしたいという若気の至りで論文を書いているところがありまして。……まあ、そんなことを考えていたということは全然「賢くなかった」ということではあるのですが、でもとにかく、「勝負してやるぜ」という変な気負いで書いていて、それが文体や内容にも反映しているんですね。基本的には同世代もしくは少し上の世代の若手研究者とかに対抗して書いていたと思います。……きっと彼らは誰一人として僕の論文を読んではいなかったと思うのですが。

高校教員時代になりますと、少しすねたところが出てきてしまいまして、つまり「大学の文学の先生になれなかったんだから、もう文学なんて研究してやるもんか」的な、すねたところが出てきまして、文学研究仲間から「広瀬はあっち行っちゃったな」って思われたいと思って論文書いていたと思います。……この思いは未だに拭い去れないところもありますが。

そして今、大学教員になりまして、一番に考えるのは「目の前の学生たちを刺激したい」ということだけです。なので、選ぶテーマも、基本事項を確認していく手続きも、学生を読者として想定したものになっていると思います。

こんなふうに、時代時代によって向いている方向が違うので、いざ今までの仕事をまとめようとするときに、リライトをしなければならない部分がかなり増えてきてしまったのです。
僕としては、上の三つの時期で言えば、2期と3期のあたりを基準にリライトしたいと思っているのですが、うまく行くのかしら……って感じです。

だけど、早くまとまったものを、皆さんにも見ていただけるようにしたいですね。

『MARQUEE』と『思想』

昨日買った本。というか、雑誌。

・『MARQUEE』VOL.95
・『思想』第1066号

『MARQUEE』はご存知のとおり、音楽雑誌です。お目当ては、花澤香菜特集。
今度アルバムが出るんですが、そこに参加した北川勝利さん、ミトさん、沖井礼二さんの鼎談が読みたかったのです。
北川さんはRound Tableのメンバーで、僕はRound Tableの曲が好きなのです。
10年ほど前に、Ninoという女性ボーカリストをフューチャーして、アニソンを提供し始めたのです。
僕は当初、北川さん自身の歌声が好きだったので、「Ninoもいいけど、北川さん歌ってよ〜」という思いでいたのですが、北川さんは北川さんで、当時、アニメの曲を書くかどうか葛藤していたらしく(もちろん当時のコンテクストにおける葛藤)、そのあたりの証言が生々しくって良かったです。
でも、あのときの北川さんの第一歩があったからこそ、今のアニソン界のシーンが築かれたんだなあと、感動しました。

一方の『思想』ですが、岩波書店が出している思想系の雑誌です。
今号は「来るべき生権力論のために」という特集で、檜垣立哉さんや市野川容孝さんらの論考があります。
僕はそんなに頭が良くないので、彼らの書いていることがどれだけ理解できるか分かりませんが、初音ミクやアニメのCV、テレフォンセックスなどにおける、一般的な意味での「実在性」を超えた実在性を獲得している身体の問題を考えるにあたり、「生権力論」を導入できるかどうか、考えたいと思っていて、そのきっかけになればと思い、購入したのです。
これまでにもアガンベンとかを買って読んだこともありましたが、僕はあまりいい読者ではありませんでした。
でも、大学の授業は終わったし、『虚構内存在』(藤田直哉)も読み終えて感想も書いたので、着手しようかな、と。

でも、ブログにこのことを書いてしまったからには、何らかのレビューを残さなきゃっていう、プレッシャーが……。